| |||||
『盆踊り 乱交の民俗学』を読んで | |||||
下川耿史 著<作品社>
| |||||
アカデミズムとは離れた場所で仕事をしてきたらしい風俗史家の著者が、近頃の学者のような思い付き放言とは一線を画する資料主義に立って、丹念な出典検証と自らの仕事として携わってきた人の性に対する本性観を重ね合わせるようにして、考察した盆踊りの文化史だ。 「人間の生活には主観的共感と客観的なものへの信頼という側面があり、主観的共感の象徴が性的な共感である。この側面は文学や絵画、映画などによって表現されてきたが、風習や伝統行事などを“性的共感”という側面から見直すことも可能ではないか」(P20)との視点には、大いに納得感があるように思われた。 第1章「歌垣-乱交の始まり」と題された“歌垣”という言葉は、高校時分の日本史で記憶して以来の言葉で、歌を戦わせる競技との覚えのあるもので、古代においていかに歌が流行っていたのかを示すものとして習ったような気がする。だが、その競技が男女間で行われ、その掛け合いによる盛り上がりの決着が性的関係を結ぶことの承諾であるというようなことは無論習わなかった。だが、万葉集などにあれだけ夥しい相聞歌が残っていることへの不可解は、当時の記憶としてもあって、それがこのような行事として催されたもの故となれば、なるほどとの得心がいくような気はした。誰しもが熱心に詠むのも道理といえば道理だ。 そして、それが踊りというか身体表現の要素を加えて踏歌として発展したということにも納得感があるとともに、儀式化すると“俗”から離れていこうとしたということにも納得感があった。 今に残る歌垣の遺制として最初に示されたものが高知県の事例(P52)だったことには意表を突かれたが、地元の民俗学者の寺石正路が1929年に残した報告に「祭の夜は御通夜といふて、善男善女が此の薬師堂で雑魚寝をして夜を明かした」とあるのは、同時期の秋田の事例報告にある「…神社に参籠する多くの男女が掛け歌をなし、…盛んに酒宴を催し男女が雑魚寝をする」を参照するまでもなく、僕が若かりし頃のよさこい祭りのことを思い出しても、そうかけ離れた吃驚するようなことではないと思った。そもそも「よさこい」というのは「夜さ来い」からきていると僕は伝え聞いている。 ただ性的に大らかであることを直ちに“乱交”とまでしてしまうことには多少なりとも違和感が拭えず、決まった相手としか交わさない性的関係から自由であったことは偲ばれるものの、皆々が一夜のうちに幾人とも交わったのではないような気がする。著者が丹念に引用している文献に性的関係を指す記述はあっても、それが乱交形態であることは示されていなかったように思う。もっとも著者は、[はじめに]のなかで「乱交とは…初めて出会った複数の男女が、その場で性的な関係を持つこと」(P7)と定義づけしているので、必ずしも“その場で複数の性的関係を持つこと”を意味してはいないのかもしれない。 第2章「雑魚寝と夜這い」では表紙図版が「高知県宿毛市に現存する“若者宿”」になっていることに驚いた。加えて「若者組と夜這いと娘組は不即不離の関係にあった。」と添えられていることに苦笑した。そして、鎌倉室町期の文化に係るキーワードとして、革新的な前衛性を意味して「ふりゅう」と読む“風流”という用語を高校時分の日本史で習った覚えがあるなかで、「雑魚寝というこれまでになかった性関係の形が「風流」という嵐の表われの一つであったし、逆に雑魚寝自体が「風流」という文化の起爆剤となっている面もあった。そして盆踊りは、念仏踊りなどの風流踊りが、発展・定着していったもの…である。…雑魚寝という乱交の形式と「風流」という文化革新がどうかかわっていたかという点から見てゆくことにしたい。ただし、その点に触れてゆくと、まもなく夜這いの問題に突き当たる。雑魚寝と夜這いは表裏一体のかたちで、「風流」という文化運動の根源のエネルギーとなっていた」(P69)との文化史観で考察されたものについては、雑魚寝=乱交の部分を除けば、大いに納得感があり、共感も覚えた。風流と田楽の関係については、先ごろ公開されたばかりの映画『のぼうの城』での成田長親(野村萬斎)の“風流者(ふりゅうざ)”ぶりを、彼の演じた小舟の上での田楽とともに想起すれば、非常にわかりやすくなるような気がする。 そして、封建体制が確立する前の「自立的な農民の存在」(P74)に言及するなかで、風流をその気概の表われと見ている著者の視線を好もしく感じたのは、「歴史は常に“殺し合いの記録”を中心に描かれており、祭や踊りなどは二義的・三義的な意味しか持ちえていない。しかし歴史家にとっては二義的・三義的なものでも、そこに生きる意味を託している庶民は、政治的覇権主義者よりもはるかに多かったと思われる。いずれにしろ、当時の庶民の歴史といえば、戦闘で田畑は荒らされ、土方として駆り出されて戦闘の犠牲になったり、女性は性的な暴力を受けても泣き寝入りするしかなかったといったイメージで語られることが多かった。もちろんそういうシーンもあちこちで演じられていたが、自分たちの身は自分たちで守るという気概の百姓たちも誕生していたのである。」(P76)との記述に共感を覚えたからだろう。 「歌垣という性の形式が和歌という日本独特の文化を生み出したように、日本の文化的ルネッサンスともいうべき「風流」は、雑魚寝と夜這いという性の形式をベースにして成立した」(P114)とまで言えるかどうかはともかく、両者に性の要素が色濃く塗り込められているのは間違いないように思う。 最も刺激だったのは、第3章「踊り念仏の狂乱と念仏踊り」だった。前章で「念仏踊りは、当時、ようやく盛んになった庶民仏教が、各種の恋歌などをうたい踊ることによって宗教的エクスタシーを得ようとしたもので、この形式が大衆化して盆踊りへと発展してゆく」(P67)と記してあった部分を掘り下げていた。 五来重の『講座 日本の民俗宗教』から「融通念仏とは、参集した門徒たちが「南無阿弥陀仏」の六字に、うつくしい抑揚・高低の曲譜をつけて、くりかえしくりかえし詠唱するもので、その声の響きや感動の中で、自分の念仏は他人の念仏となり、他人の念仏は自分の念仏になってゆくという考えである。これは現代風にいえば、宗教的なエクスタシー、恍惚の境地に達することを意味していた。良忍は、そのようなエクスタシーを念仏の本来の目的として主張した」(P123)と引き、「現代になぞらえていえば、グループサウンズが全盛だった一九六〇年代にコンサートで失神するファンが続出し話題になったものだが、当時の(声明・和讃を唱える)法会がグループサウンズのライブだとすれば、失神するファンはエクスタシーに達した信者たちと感情を一にする人々であった」(P124)としてあるのを読むと、「(法然の)専修念仏運動が世の人の目をひいたのは、それが一種の歌声運動だったからである。“南無阿弥陀仏”とひたすら唱え、人にも勧める先頭に立ったのは、僧(男)であるとはいえ、きれいで魅力的な声の持ち主たちであった。…念仏の会は夜が多いとすれば、扇情的な念仏の声ともなろう。集まってくる女性と僧との間に“風紀問題が”起きがちである。そしてこれが評判をよんで念仏の会に集まる男女がさらにふえる。」との説を今井雅晴の『一遍-放浪する時衆の祖』から引いて、「今井はこれに続けて、専修念仏運動の大きな魅力になっていたのは、ありがたい念仏だからでも、教理的に優れた念仏だからでもなく、美声による念仏だったからであるとも指摘している。この頃、世間では雑魚寝や夜這いが大流行していたが、それとの比較でいえば、宗教的なエクスタシーの追及は、新しい性の形への好奇心だったといえるかもしれない。少なくともこの直後に起こった踊り念仏は、宗教の世界で展開されたエクスタシー追求の頂点であった。」(P126)ということが、日本史で念仏の大流行について習ったときに、たかだか修行を要しない親しみやすさが支持されたとの説明では得心がいかなかった覚えのある疑問を氷解させてくれたような気がした。 そして、風流の担い手であった若者組(都市では町人層、農村では農民層)が、田楽や神楽、風流踊りを生み出し、その風流踊りの一つとして、「田楽や念仏踊りから小町踊り、伊勢踊りなどの要素を糾合しながら、日本独特の民俗芸能に発展」(P204)させた盆踊りを考察した第4章「盆踊りの全盛と衰退」には、「現代では性の関係といえば、夫婦にしろ恋人にしろ、他人の目に触れないようにひっそりと行なうものという固定観念があり、その関係を世間にどれほど露出しているかによって、下品・上品という認定がなされている。しかし、これまで述べてきたことからも想像されるように、古代から中世の共同体においてはそうではなかった。歌垣は見物人の前で歌の掛け合いをすることによって性の関係が成立するのであるから、男女の仲は公然であったし、雑魚寝の場合、誰が誰と関係したかはその場面にいれば明白であり、夜這いの場合も、村の若者がどの女性のもとに夜這いに出かけるかは周知のこととされた。…つまり、歌垣にしろ風流の世界にしろ、祭という非日常の心理を共有している人々にとって、性の関係を隠すということは端から考慮の外のものであった。」(P199)との記述がある。 これが、封建制度を確立させた幕藩体制によって、その担い手たる若者組が圧迫されたことで、大きく変質し、衰退の歴史を辿っていることが記されているのだが、盆踊りを含む風流踊りについて、山路興造の『日本芸能史』から「大勢の人間が統一的なテーマで着飾り、頭の飾りや持ち物をそろえて、同一の振りで踊るという趣向は、風流踊り独自の芸態である」(P140)とし、とりわけ伊勢踊りを取り入れた盆踊りが、往来を踊りながら進んでいく道行きの要素が加わったことで「振りもテンポも、まったく違う種類の踊りが登場した」(P198)として、阿波の盆踊りに言及している個所を読むと、我が地の“よさこい祭”を思わずにはいられなかった。 自分自身が参加することがなくなって三十年にもなるから、今現在がどうなのかは知らないけれども、少なくとも三十年前当時は、祭が若い男女の出会いと発展の場であって、そのなかには一夜限りのお楽しみも横行していたような記憶がある。 「もともと日本では、性関係は女性の主導で行われることが多かった。これまで述べてきた歌垣や雑魚寝なども、女性の積極的な意志なしには成立しないことは明らかである。その点について、宮本常一は『民衆の文化』の中で、次のように指摘している。−日本では女によってなされる踊がきわめて多い。それはもともと男をえらぶためのものであったといっていいほど踊にともなって情事が見られている。− 宮本によると、ロシアの東洋言語学者で、一九一五年に来日し、柳田國男や折口信夫、金田一京助らと親交のあったニコライ・ネフスキーは「踊」という字を「(女による)男取り」の転化したものではないかという意見を発表して、日本の民俗学界に大きな影響を与えたという。」(P222)という説が目に留まった。今でもそう大きくは変わってないのじゃないかという気がしなくもない。踊を男取りの転化だとする説は、この年になって初めて聞いたのだが、確かになかなか面白い。 | |||||
by ヤマ '13. 1. 5. 作品社単行本 | |||||
ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―
|