『かぐや姫の物語』
監督 高畑勲


 何かのために生きるのではなく、生の手応えを重ねることこそが生きる意味であり、“いのちの記憶”として受け継がれるべきものであることを、かほどの品格とユーモアで以て描き、古典中の古典によって語ることで揺るぎなき普遍性を感じさせてくれたことに感服した。

 なよ竹のかぐや姫(声:朝倉あき)のキャラクター造形が実に素晴らしい。捨丸(声:高良健吾)たちと過ごした“過去”がいかに良きものだとしても過去には戻れない現在というものを引き受ける覚悟の程やキリッとした生き方に痺れ、その選択への悔恨や自責に“心がざわめく”姿に痺れてしまった。

 地球に憧れた罪によって姫が受けた罰は、月世界に戻る際に彼女の心を万感の想いで苛んでいたけれども、この罰によって得た“心のざわめき”ほどに打ち響く生の手応えはなかったわけで、万事平穏安穏な月の世界の住人よりも地球人のほうが遥かに確かな生の世界に生きているということなのだろう。

 そういう意味で確かに、生きるということはそれ自体が罪であり罰なのだろうが、その罪と罰も、生あればこそのものだ。そして当然にして、このうえない喜びもまた“心のざわめき”に他ならない。

 そうしたなかで、人のではなく生の貴賤を問うとき、財力によって得られる見掛けの高貴さは、車持皇子(声:橋爪功)が匠に作らせ代金を踏み倒した「蓬莱の玉の枝」の如きまがい物で、巧言令色の実のなさは、「仏の御石の鉢」と称して手折った蓮華を言葉で飾り立てて口説いていた石作皇子(声:上川隆也)の恥知らずな好色さとして描かれていたのだと思う。御門(声:中村七之助)にしてからが女性に対していささかの惻隠の心も持たぬ身勝手さであった。

 そこには、磨き上げた姫として“扱われる”ことにおける「女性の性の商品化」を鋭く映し出すとともに、公達御門なる身なればこそ嵌まりやすい賤の陥穽を描き出して、貴賤の本質を炙り出そうとする作り手の想いが現れていたような気がする。他方で公達といえども自らの身体を張る大伴大納言(声:宇崎竜童)や石上中納言(声:古城環)も登場するが、いずれも情けない馬脚を露すわけで、せこさの際立つ阿部右大臣(声:伊集院光)も含め、高貴とされる人は押しなべて形無しだった。

 賤民として描かれていた捨丸に公達のような卑しさがないのは、かぐや姫を稀少の愛玩物として愛でるのではなく、かぐや姫ならぬ竹の子との体験共有による共感性の掛け替えのなさを愛でていたからで、妻子を得ながらの交感であっても、それが些かも損なわれるものではないことを謳いあげていたことに感じ入った。純か不純かを峻別するのは、決して唯一性ではないということだ。

 姫の幸せを心底から願っているつもりでいながら、幸せの何たるかがさっぱり解っておらず、形あるものだと錯覚しているものに頼って本末転倒している翁(声:地井武男)と、子を産み為す側である性の“体感による身体性”に優る媼(声:宮本信子)との対照が、やや類型的ながらも、幸せの何たるかを知るうえでの女性の優位性を語っているようにも思えた。僕は、鳥虫獣草木花のいずれにもさほど執心はないのだが、それでも何十年ぶりかで身近な幼子と頻繁に接する機会を得て、あらためて“いのちの記憶”の掛け替えのなさを実感するようになっているものだから、余計に響いてきたようなところがあるのかもしれない。

 観終えた後、エンドロールと共に流れる主題歌が、予告編で耳馴染んだ歌とはまるで違った響きで聴こえてきたのは、それだけ強い感銘を受けていたことの証左なのだろう。かぐや姫が溢れる憤りに御殿を脱して疾走し雪山に行き倒れた夢と、捨丸に夢として残したひとたびの交わりの一体感を描き出していた画力にも心打たれた。大したものだ。




参照テクスト:下川耿史 著『盆踊り 乱交の民俗学』読書感想文


推薦テクスト:「一語一映」より
http://itigoichi.exblog.jp/21442173/
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/13120101/
推薦テクスト:「雲の上を真夜中が通る」より
http://mina821.hatenablog.com/entry/2013/12/05/185208
by ヤマ

'13.12. 1. TOHOシネマズ4



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