『戦争と一人の女』
監督 井上淳一


 あまりいい噂が聞こえて来ず期待よりも覚悟半分で臨んだせいかもしれないが、思いのほか面白く、いろいろ触発されるところがあった。

 大平義男(村上淳)というのは、間違いなく小平事件の小平義男が素材なのだろうが、対米戦争に向かいつつあるなか、虚無的な厭世感に囚われた作家(永瀬正敏)と須崎の特飲街上がりの飲み屋の女将で、妾をお役御免になったばかりの女(江口のりこ)の話との絡み具合が妙に釈然とせず、坂口安吾の原作でも小平事件が取り上げられていたのだろうかと疑問に感じて、青空文庫を当たってみた。

 そしたら、案の定、両者は別物で映画化に際して凝らした意匠だった。原作とされた坂口の作品は戦争と一人の女だったが、これには続戦争と一人の女という、同じ話を女の私の一人称で語らせた決して続編ではない作品があって、映画作品のなかの台詞は、その両者から採られていた。

 最も興味深く感じたのは、「もう、戦争の話はよしませうよ」「どうにでも、なるがいゝや」で終わる短編小説『戦争と一人の女』を潤色した映画化作品が、思いきり“戦争の話”の比重を大きくしていることだった。本作の企画とクレジットされていた寺脇研の意図か、脚本の荒井晴彦の趣向かはともかく、作り手の“今”に対する時代認識の表れのように感じた。つまり、原作に漂っている厭戦気分とともに示されている程度の“戦争による精神の破壊”では済ませられない反戦主題を明確に打ち出す必要のある時代になってきているとの意識があったような気がしたのだ。

 原作で女は快感がないくせに男から男と関係したがる。娼妓といふ生活からの習性もあらうが、性質が本来頭ぬけて淫奔なので、肉慾も食慾も同じやうな状態で、喉の乾きを医いやすやうに違つた男の肌をもとめる。身請けされて妾になるだけの容貌はあり、四肢が美しく、全身の肉づきが好もしい。だから裸体になると魅力があるのである。妙に食慾をそゝる肉体だ。と描かれている女に江口のりこが適役だったようには思えないが、結果的に、女の掴み処のない得体の知れなさや面妖さが浮き彫りになり、何だか戦中戦後を生き延びた日本人のメンタリティのある種の部分を表象しているように感じられた。

 それは同時に、作家の男や連続暴行殺人犯の大平義男に託されていたものでもあるように感じられて、大いに触発されたのだが、そのメンタリティの捉え方に“昭和的ステロタイプ”のようなものを感じたりもした。とりわけ引っ掛かったのが、アイノコを産むはずだったのに、日本人しか産めそうにない、いいでしょ、先生との台詞だった。昭和の時代を閉じて四半世紀となる現在を生きている僕には、この台詞に強い違和感を感じるほどに、日本人のメンタリティは深くアメリカナイズされて“アイノコ”そのものになっているような印象がある。

 もし、そういう象徴的な意味での“アイノコ”という言葉が原作にあるとするならば、そこに示されるアメリカというのは、理想的リベラリズムのシンボルとしてのものであって、少なくとも既にアメリカという国が担うことのできなくなっているものだという気がした。

 そんな思いとともに原作を渉猟したら『続戦争と一人の女』のほうに野村自身がはつきりと戦争の最も悲惨な最後の最後の日をみつめ、みぢんも甘い考へをもつてゐなかつたからだつた。野村は日本の男はたとひ戦争で死なゝくとも、奴隷以上の抜け道はないと思つてゐた。日本といふ国がなくなるのだと思つてゐた。女だけが生き残り、アイノコを生み、別の国が生れるのだと思つてゐた。野村の考へはでまかせがなく、慰めてやりやうがなかつた。野村は私を愛撫した。愛撫にも期限があると信じてゐた。野村は愛撫しながら、憎んだり逆上したりした。私は日本の運命がその中にあるのだと思つた。かうして日本が亡びて行く。とのくだりがあった。原作では、アイノコという言葉に積極的に日本人のメンタリティを表象させているようには感じられなかったが、「私は日本の運命がその中にあるのだと思つた。」との一節から、脚本を書いた荒井晴彦は、そのインスピレーションを得たのかもしれない。

 だが、もはや現代は、坂口安吾が原作を書いた1946年とはアメリカの姿も日本の姿も大きく違っており、「アイノコを産むはずだったのに、日本人しか産めそうにない、いいでしょ、先生」との台詞は、あまり気の利いた潤色ではないように感じられてならなかった。

 大平義男のパートについては、いささか木に竹を接いだような“取って付けた感”が生じていたような気がするのだが、たとえ原作の持ち味を損なう面が生じても、原作発表と同時代の著名な連続殺人事件を借りて“戦争による精神の破壊”を具体的に表象したかったのだろう。

 原作の途中で同胞の敗残兵に強奪されたり、女が強姦されることまで心配してゐた。との一節から得た着想なのかもしれない。私のからだ、どうして、だめなのでせうと言う一方で野村は女の肢体を様々に動かしてむさぼることに憑かれはじめてゐたのである。「そんなにしてはいやよ」 彼は女の両腕を羽がひじめにして背の方へねぢあげた。情慾と憎しみが一つになり、そのやり方は狂暴であつた。「痛、々、何をするのよ」 女はもがかうとしても駄目だつた。そして突然ヒイーといふ悲鳴をだした。野村は更にその女の背を弓なりにくねらせ、女の首をガク/\ゆさぶつた。女は歯をくひしばつて苦悶した。そして、ウ、ウ、ウといふ呻きだけが、ゆさぶれる首からもれた。彼は女を突き放したり、ころがしたり、抱きすくめたりした。女は抵抗しなかつた。呻き、疲れ、もだえ、然し、むしろ満足してゐる様子でもあつた。とも描かれる女との対照になる男として設えられていたように思う。

 右腕を失い不具者となった帰還兵の大平が妻との睦み合いにおいては、まさに原作小説の女の「私のからだ、どうして、だめなのでせう」さながらの不能者となっていることと、街でたまたま強姦場面に出くわし制止しようとして殴り倒され強姦を目の当たりにするなかで取り戻した男性機能に憑かれたようにして、今度は自身が連続強姦殺人を重ねるようになる姿が、まさしく“戦争による精神の破壊”として描かれていたように思う。そして、自ら覚悟を決めて臨んで来られたりすると却って何の手出しもせずにコメを与えたりする姿を併せ描くことで、彼が本来持っている部分と戦争によって破壊された部分との対照を印象付けていたような気がする。村上淳は、柔和と暴虐の間を揺れ動く怪物の掴み処のない得体の知れなさや面妖さを巧みに演じていたように思う。だが、少々饒舌に過ぎた気がしなくもない。


by ヤマ

'13.10. 8. あたご劇場



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