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『新・座頭市物語』['63] 『仁義の墓場』['75] | |||||
監督 田中徳三 監督 深作欣二 | |||||
どちらも初見だが、なかなか興味深い巧みなカップリングだった。そして、製作年次を考え合わせ、観るなら『新・座頭市物語』のほうから観るべきだったような気がした。水戸藩の天狗党にしろ、市(勝新太郎)に居合い抜きを手ほどきした師匠の伴野弥十郎(河津清三郎)にしろ、武士たちが、見せ掛けの大義や面目の立派さの裏でお粗末な下劣さを晒すのとは対照的に、ヤクザである市の純情や島吉の男気のほうが遥かに立派だった。特に、安彦の島吉(須賀不二男)が三六の半から四六の丁に賽の出目をそっと変える場面が良かった。 近頃は、映画でもテレビでも専らサムライを持ち上げる物語で溢れていて、外国映画『ラスト・サムライ』['03]のヒット以降は特に目に付くが、戦後昭和の時代は、サムライを美化して描くのはNHK大河ドラマだけで、他ではサムライなんぞ軍国主義の源泉でろくでもないものとして描くのが一つの見識であり、在野の主流だったような気がする。本作は、そういう見地からの王道作品というわけだ。盲人の按摩の揉み料を踏み倒す水戸浪士のセコい尊大さや呑み屋の女将の間男をやっている卑小を揶揄されて逆上する弥十郎に比して、市も島吉もヤクザながら実に堂々たるものだったように思う。 もう家には居られなくなってきたと頼ってきた人妻情婦を邪険にする弥十郎と違って、憧れの弥生(坪内ミキ子)からの過分の告白に舞い上がり、一大決心を固める市の純情を勝新太郎が見事に演じていた。市を兄の仇と追ってきた島吉を返り討ちにすることは造作もないはずなのに、地べたに手を付き島吉に命乞いをする市の姿に、島吉がその決意の程を確かめたうえで温情を施すのは、もちろん市が居並ぶ蝋燭を瞬く間に刎ねた腕前を障子越しに覗き観て知っていたことが大きく作用しているわけだが、そのことを偲ばせる納得感が場面的ご都合主義ではない作劇の丁寧さを窺わせていたように思う。大事な場面だけに嬉しい。映画というのは、やはりこうあってほしいものだ。 併映の『仁義の墓場』もまたヤクザを描いた作品なのだが、同じヤクザにしても高度成長期を過ぎた'70年代になると、そこに託されているものが随分と異なってきていたように思う。実在したらしい主人公の石川力夫(渡哲也)なぞ本当にろくでなしで、全く手がつけられない。目を掛け気に掛けしてくれる親分(ハナ肇)や兄弟分(梅宮辰夫)にさえ、少し気に入らないことがあると斬りつけるし、銃撃までする狂犬だ。 冒頭で語られる石川力夫についての幼時の証言が利いている。そこからは'26年生まれの彼が元々は気弱な頭のいい少年だったことが偲ばれ、何が彼をこうさせたのかということに想いが及ぶ。思えば、石川がヤクザになるべく上京してきたのは15の歳だったように言われていたから'41年ということになるわけで、ちょうど太平洋戦争開戦の年に当たる。戦後の動乱期にしでかした不始末で関東を追われ釜ヶ崎のドヤ街で娼婦(芹明香)から教えられた覚醒剤中毒になる以前から、石川の刹那主義には目立ったものがあり、その投げやりなまでの死に急ぎには、刑務所の独房内に残された「大笑い 三十年の 馬鹿騒ぎ」との辞世にも窺える敗戦時の日本の荒廃が投影されていたように思う。 わずか五千票差で落選したとはいえ、ヤクザの親分(安藤昇)が堂々と衆院選に立候補し、石原前東京都知事が今だに公然と使う侮蔑語としての“三国人”勢力のヤクザと日本人ヤクザの抗争に対して警察があからさまに日本人ヤクザをバックアップしているような時代なのだ。そのことを的確に描き出し、戦時下の抑圧に対して敗戦後に彼らが反動的に暴挙を顕在化させていたことを露にするとともに、その制圧に占領軍アメリカの力を借りる日本側陣営の姿が、戦後日本というものを象徴的に捉えていたような気がする。 そういった戦後日本の荒廃が石川を狂犬に駆り立て、情婦(多岐川裕美)も兄弟分も死に追いやるわけだが、同じ動乱期でも幕末ヤクザの市や島吉のような美学が微塵も窺えないところが暗示的だ。世情の荒廃ムードというものが鍵を握っているような気がする。それで言えば、格差社会の進展による日本の荒廃が今また形を変えた石川力夫を生み育んでいるように思う。 そして、ちんぴらが実に似合っていた渡哲也に驚き、多岐川裕美の野暮ったさに意表を突かれた。彼女と三人官女のようにして並んでクレジットされていた芹明香、池玲子に比べていかにも初々しく、深作作品とは思えない濡れ場での出し惜しみに少々解せない印象が残った。 | |||||
by ヤマ '13. 3. 8. あたご劇場 | |||||
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