| |||||
『ダイアナ』(Diana) 『おしん』 | |||||
監督 オリヴァー・ヒルシュビーゲル 監督 冨樫森 | |||||
ちょうどフリーパスで同じ日に観たのだが、洋画と邦画、王妃と奉公人の違いはあっても、過酷な環境のなかでタフに生き、逞しく自分を発現させていった女性を描いていて、奇しくも相通じる二本立てとなった。だが、映画作品の出来としては、相当な開きがあるようにも感じた。 邦画の『おしん』のほうは、歌舞伎の伝統と言ってしまえばそれまでなのだが、まるで「~の段」という名前を付けたら良さげな、拵えられた見せ場での見得のような演技と演出の繋ぎ合わせで、少々閉口しつつ次第に倦んできていたのだが、場内には啜り泣きが途切れなくて些か面食らった。 僕が欠伸で流す涙とは明らかに違う涙がどうして出てくるのか不思議に感じつつ、そもそも今更どうして「女が働くのは、親のため夫のため子供のためなんだ。自分のために働く女などいやしない。だから、母さんを悪く思っちゃいけないよ」などと泉ピン子がのたまうような作品を企画するのだろうと訝りながらも、現に今回フリーパスで観た30本近い作品のなかでも観客数が比較的多いのだから、企画を馬鹿にするわけにはいかない。中高年以上の女性ばかりなのだが、劇場観客というのは確実にこの層なのだから仕方がない。 「おしんの“しん”は信じるのしん、真実のしん、神だってしんだ」などという俊作(満島真之介)の台詞があったが、監督名まで、お森とは恐れ入った。まさか狙ってやしないだろうが、それにしても、小林綾子はどこに出てたのだろうとエンドクレジットを観ながら思った。どうやら奉公先の若奥様の役だったようだ。 ターゲットという点では洋画の『ダイアナ』もまさに同じような層なのだろう。だが、作品的な充実では比較にならないように思った。 天邪鬼な僕は、ダイアナ妃の人気沸騰で女性週刊誌が毎週のように彼女の何かを報じていた時分の報道には、ほとんど関心を寄せていなかったから彼女に何が起こっていたのか余り詳しいことは知らなくて、イスラム教徒のパキスタン人心臓外科医との恋などというのは初耳だったのだが、彼女のゴージャスとフレンドリーを併せ持ち、エレガントと奔放を軽やかに行き来する魅惑の強力さは、本作によって充分以上に感じた。そして、周囲からのセレブリティ圧力も含めたあのパワーに晒されて、難なく制御しつつ個人的な関係性を全うできる男などいないのではないだろうかと、妙に納得していた。 それにしても、ナオミ・ワッツは、本当にいい女優だ。既に40代半ばにあるから30代半ばには少々老けている感じを覗かせるのは止む無いことながらも、それをさまざまなストレスから来る「やつれ」に見せてしまうくらいに、端々で見せる若々しい表情が素晴らしく、その艶にすっかり魅せられた。昨今の日本の女優とは違って、彼女は著名になってもヌードを厭わないハリウッドスターだが、さすがに本作では作り手のほうが遠慮していたようだ。それでも、毀誉褒貶著しいダイアナ妃の有り体な姿が果敢に描き出されていたように思う。それが彼女の掴まえ所のなさには繋がっても、露とも下品にならなかったところが見事だった。長時間の手術にも集中力を途切れさせないタフさを備えたハスナット(ナヴィーン・アンドリュース)さえも心乱され、すっかり翻弄されてしまうのが無理ないように思った。 ダイアナは、奇しくもマリリン・モンローと同じ享年36歳だったわけで、エルトン・ジョンが『さよなら、ノーマ・ジーン』との題名だった楽曲を『キャンドル・イン・ザ・ウィンド~さよなら、英国の薔薇~』に変えて葬送したように、本作を観ると、ダイアナがマリリン同様に、あまりに突出していたがゆえに幸を得られなかった女性のように感じられた。アメリカン・ビューティの名を持つ薔薇となったマリリンにも匹敵する女性として、英国の薔薇というタイトルが付けられたのだろう。それにもかかわらず、映画の最後にハスナットの供えていた花が、白い百合だったように見えたのは、“過酷な環境のなかでタフに生き、逞しく自分を発現させていった”ダイアナの備えていた「威厳」に対する作り手の敬意が託されていたのかもしれない。 | |||||
by ヤマ '13.10.20. TOHOシネマズ7 '13.10.20. TOHOシネマズ1 | |||||
ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―
|