『愛、アムール』(Amour)
監督 ミヒャエル・ハネケ


 いかにもハネケらしく、逆説のなかに潜む真実を見事に炙り出した作品だった。

 序盤のほうにある、老親のジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)に、娘のエヴァ(イザベル・ユペール)が、幼いころ両親の寝室でのセックスの喘ぎ声を盗み聞きに行っては、愛の絆を感じて安心していたと言ったりする場面がなかなか効いている。幼い娘に閨房での声を聴かせることを敢えて良いことだと考えている人は少ないと思うが、場合によってはそういうこともないとは言えないわけだ。同様に、高齢者夫婦の介護疲れによる無理心中を肯定的に捉える人も少ない気がするが、そうではない場合が勿論あるというわけだ。

 僕自身も、日本で介護疲れの果てに90代の夫が80代の妻を殺して無理心中をしたという事件の報じられたことがあったときに、何だか遣り切れない思いを抱いた記憶がある。しかし、“介護疲れ”などという言葉にして一括りにし、定型的で浅薄なイメージで言葉を流通させるから、物事をそのようにしか見られなくなるわけで、人の営みの実相とは、本来そのように表層的なものでは決してない。

 ある意味、疲れ果てるまで介護を尽くしてもらった挙句に、愛する人の手で、己が望む引導を渡してもらえる終末ほどに“至福のターミナルケア”はないのかもしれない、などと思った。鳩が二回来たのだとジョルジュが書き残していて、最初のときは見過ごしてしまったけれども、二度目はわりあい簡単に捕まえることができたと綴っていた。福音を運ぶ鳥として訪れた鳩をジョルジュがふわっと布を掛け覆うようにして捕まえ、アンヌ(エマニュエル・リヴァ)がすっかり洗いものも済ませて、二人して仲良く天国への扉を開いて出て行った姿を観ながら、機が熟すことのもたらす必然というのは、確かにそういうものなのかもしれないと思った。

 最初のときは、まだ機が熟していなかったから見過ごしたと言えるし、仮に見過ごさずに捕まえようとしたとしても、気が熟していなければ、容易には捕まえられなかったはずだ。人生というのは、そうしたものなのだろう。重要なのは、彼らの無理心中が貧困によって福祉医療サービスを受けられずに追い込まれたものでは決してないことだ。経済的困窮とは程遠い暮らしぶりは、居室の贅沢さのみならず、気前よく釣り銭は要らないと言うのが普通になっていることや、妻の病状の悪化に伴い、雇う看護師を増やしてローテーションを組んだりできるところなどに如実に表れていた。あくまで、誇り高い妻の「二度と病院には遣らないで」との求めに応じて、己がイメージを損なう醜態を晒したくない妻の願いに応えてやるためにしていたことだった。

 そんな妻が、穏やかな夫が思わず手を上げてしまうくらい頑迷に夫の飲ませようとする水を拒んで手を焼かせたのは、単に病身や老いへの憤りや苛立ちではなく、恐らくは壊れゆく自分の姿に心底耐え難くなって、夫の献身を充分知りながらも、命を終えたい意志を伝えようとしたのだろう。このときのアンヌの強い目の光が実に強烈だった。再見して確かめてみないと定かではないが、一度目に鳩がロラン家に入り込んできたのは、この前後あたりだったのではなかろうか。だが、この当時のジョルジュは「そんなに手を焼かせるなら約束は守れないから病院に戻すぞ」と脅しを掛ける有様だったから、鳩を見過ごすのは当然と言うほかない。まだ“疲れ果てる”まで介護を尽くしてはなく余裕があったとも言えるような気がする。心底余裕がなくなり、のっぴきならなくなったときが機の熟したときだとしても、そのことをこんなふうに肯定的に観られる感じの残る作品には、なかなか撮れるものではないように思う。流石というほかない。

 加えて、老親たちのそのような境地など到底想像が及ばないであろう娘エヴァが一人ぼっちで、遺された居室に腰かけている姿で終えているのが効果的で、彼女が何を回想していたかが観客によって意見の分かれるところだろうと思った。通常なら、両親を心中に至らせたことへの悔悟や自責に見舞われそうに思うのだが、なにせ幼い時分に両親の閨房からの声を聴くのが好きだったと父親に伝えるような娘なのだから、一概にそうとも言えない。しかし、そんな彼女ですら、老父の至った境地が愛の営みだと受け止めるのは流石に困難であるさまを伝えているようにも映った。

 いずれにしても、報道メディアなどで流通している言葉や視座からは到底窺い知れないものこそが人間の現実存在であるのは間違いない。我々は、人の如何ほどについて知ることができるのだろう。判ったようなつもりになること、あたかも自明のことのように感じる奢りというものから、人やメディアが解放されることが果たしてあるのだろうか。かなり悲観的な思いが拭いきれない。

 妻のアンヌを演じたエマニュエル・リヴァが素晴らしかった。




推薦テクスト:「映画通信」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1895778661&owner_id=1095496
推薦テクスト:「雲の上を真夜中が通る」より
http://mina821.hatenablog.com/entry/20130322/1363934132
by ヤマ

'13.10.15. 美術館ホール



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