『JUNO/ジュノ』(Juno)
監督 ジェイソン・ライトマン


 ヤング≒アダルトの人物造形と描出にすっかりやられて気になっていたライトマン監督=コディ脚本のコンビによる第一作をようやく観た。既に是非を問うても詮無い“是非もない状況”として、妊娠した女子高生の選択のありようと周囲の対応を描いて、実に問題提起というか触発力に富んだ痛烈な作品だった。

 産む以上は、という形での“産む責任”を問うことは即ち「育てられないのなら産むな」ということであり、決して生命最優先の考え方ではない。勿論そもそも「いかなる生であれ生命最優先」ではないのではないかという考え方もありうるし、されば優先されるべき生命の選別は何によるのかとの反問も自ずと想定される。

 妊娠の相方であるBFポール・ブリーカー(マイケル・セラ)の意思も確認したうえで一度は中絶を決心したジュノ(エレン・ペイジ)が、“産む責任”を自身による養育とだけは考えずに、より良き養育環境の確保として、それに向けて奮闘する姿が描かれていた。これを是とできるか否かは、人によって分かれるような気がするが、妊娠という問題における自己決定権には、中絶をもやむなしとするのなら当然にして里子という選択も含まれるべきだろうと僕は思う。

 まだ16歳の高校生に養育は無理として、自己決定権を追いやり里子に出すことも無理やり堕胎させることも、どちらも排除されるべきなのは言うまでもなく、同様に“腹ぼてワンコ”になった以上は、是が非でも養育しなければならないというのもまた自己決定権を追いやることに他ならない。何であれ、自己決定という引き受けや覚悟あるいは子育てを望む欲求の醸成というプロセス抜きに、ただ負わされて果たせるほど子育てというものは生易しいことではない気がする。

 ジュノから妊娠を知らされたポールが「僕たち、どうすればいい?」に続いて「君がしたいようにすれば、いいさ」と答えた真意に、逃げではなくあくまで彼女の自己決定権を尊重したい想いが強かったことの窺える人物造形だったように思う。それに対する共感が僕にはあって、仮に彼女が異なる対応策を提起しても「君がしたいようにすれば、いい」と答えて応じていくのが相方としての責任だと僕は思う。だが、「それ(“摘み取ろうかと思う”)でいいわけ」と問い返していたジュノには、自己決定権を侵害されることには強い反発を見せるはずの自我の強さを窺わせつつ、かような重責を自己決定権の名のもとに自分一人で負わなければならない苦しさに納得できていない様子がありありと窺えていたように思う。エレン・ペイジの演技が絶妙だった。彼女が別れ際に放った「セックスしてごめんね。あなたの考えじゃない。」との投げ捨て言葉は、つまりはそういうことなのだろう。

 逆に言えば、いかなる言葉や考えを表出して見せても、予期せぬ望まぬ妊娠という事態において、「あなたには証拠が残らないから得よね」と言われる側にある男が相方を満足させられることはないような気がする。大事なのは、満足させたり納得させることではなく、相方の自己決定を含めたプロセスに付き合っていくことそのものなのだろう。

 むろんポールは、まだそこまでの自覚には到底及んでいないのだが、自覚はなくとも基本的にはそれに沿った対応ができていたような気がする。他方、ジュノの継母ブレン(アリソン・ジャネイ)には、その人生経験の豊かさに見合った自覚がきちんとあったように思う。ジュノの父親マック(J・K・シモンズ)とは、そこのところが違うわけで、娘がすべての方針を決めたうえで状況説明をしたことに対し、きちんと「別の選択は?」と確認したうえで、育てるのでも堕胎するのでもない選択をした娘を「強いのね、バイキングみたい。」と支持して応じていく腹を固めていた。産むと決めたジュノが通う産科の検査技師が常識的な思い込み発想で、養父母が決まっているだけで安心表明をすることに対して食って掛かる場面が効いていたように思う。確かに、生まれ出る子供の幸いが確実に約束された養育環境などというものは、実父母の元であろうがなかろうが、いずこにもないし、あったところで、そういう“ご意見”を表しても何の助力にも問題解決にもならない。

 単純に妊娠中絶することで問題解決を図るのではなく、まだ育てられないとの本心を偽って無理に養育に向かう覚悟をするのでもなく、生まれ出る命のために最善の養育環境を見つけ出そうとすることをもって“産む責任”とし、産めぬがゆえに育てる意思と覚悟を固める女性ヴァネッサ(ジェニファー・ガーナー)を配して、産む責任と育てる責任というのは、問題としては必ずしも表裏一体ではないことを提起していたところが効いているように感じた。ジュノが自らに課した“産む責任”がそのようなものであったからこそ、想定外だったマーク(ジェイソン・ベイトマン)とヴァネッサの離婚に衝撃を受け、涙したのだと思う。

 是非もないと言えば、これ以上に是非もない問題で、是非を超えてどう対処していくことができるのかを考えるうえで非常に示唆に富んでいるように感じられたのは、現実には是非もない問題において、是非に囚われる向きの多いことが余りにも目立つからだろう。是非を質すことよりも先ず向かうべき課題に対処する必要があるのに、本末が転倒しているように見受けられることがしばしばあるように思う。

 本作の残していた爽快感は、そのような本末転倒を来さずに、自分を偽らないで生きようとする女性たちの姿を描いていたからだという気がする。その点では、ジュノだけではなく、独り身になっても念願の子供を得たヴァネッサにしても、義娘に遠慮して断念していた犬を飼い始めたブレンにしても、大事小事に差はあっても同様で、些か幼稚さが拭えないきらいの目立ったマークさえも、その生活を改めることにしていた。

 エレン・ペイジの演じたジュノもさることながら、継母ブレンの人物造形が秀逸で、アリソン・ジャネイが魅力的だった。登場する女性たちのいずれにも強い自我意識が窺えるのだが、そこに“自己決定”も含めて、一本筋が通っている気がする。そして、それを「主張」という形を取らずに「対象化」して描き出しているところが凄いと思った。さすがは女性の手になる脚本で、なかなか大したものだ。



推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=853460812&owner_id=3700229
by ヤマ

'13. 1.13. Movie Plus録画



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>