『私が、生きる肌』(The Skin I Live In)
監督 ペドロ・アルモドバル


 トレドには三十年前に行ったことがあるが、2012年のトレドはもちろん知らない。だが、遠目に映る街並みに大きな変化は感じられず、イメージ的には歴史の残る何処か神秘的な妖しい街だという感じを持っている。それは、つい先日、大阪の国立国際美術館で観てきたばかりの“エル・グレコ展”で触れた作品群やルイス・ブニュエルやギレルモ・デル・トロなどに限らぬ数々のスペイン映画に窺える傾向としての幻想感というか超現実感といったものが補強してくれているのかもしれない。本作もまた相当にヘンな映画だったように思う。

 題名にもなっている“The Skin”になぞらえて言うならば「人間、一皮剥けば、どんな素顔が現れるか分かったものではない」などということは、多少なりともの歳月を生きてきた者にとっては決して特段の話でもないのだが、ベラ(エレナ・アナヤ)の一皮、ロベルだかベルトだかロベルトだか知れない形成外科医(アントニオ・バンデラス)の一皮の下に潜んでいたものには、流石に呆気にとられた。

 事実の如何よりも、いま眼前に映っているイメージのほうが人にとって支配的であるというのは、おしなべて窺える普遍的な傾向なのだが、自身にとって“最も近しい位置にある他人”としての妻のみならず、まさに自分自身そのものにおいても、それぞれが認知している過去の事実以上の影響力を眼前のイメージが与えていたのは、やはりその女体が圧倒的な美の力を備えていたから、ということなのだろう。

 四六時中の監視体制を敷いて厳重に監禁し、警戒もしていたはずのロベルが、家政婦たる実母マリリア(マリサ・パレデス)の忠告にもかかわわらずベラに油断してしまったのも、ビセンテ(ジャン・コルネット)が嘗ての自身を見失っていたのも、柔らかで傷つきやすく滑らかな肌と美貌を日々、目のあたりにし見惚れてしまうことで実像をついつい失念していたからなのだが、いくら何でもそれはないだろうなどとは思わせない画面の力に唸らされた。毎日毎日、あの巨大モニターで大写しになる美神のごときベラを見つめていれば、ベラはベラ以外の何者でもないという気になってしまうくらい、ロベルもビセンテも魅入られるのが何だか分かるように思えたから凄いものだ。その一方で、六年前の事件当時の写真を見ることで、掛けられていた魔法が解けるようにして、ビセンテが一瞬にして自身を取り戻してしまう呆気なさというのもまた、痛烈だった。まこと百聞は一見に如かずというくらい、人は視覚から受ける刺激の前に脆いものだと改めて思った。

 それにしても、外科医の趣味が盆栽だというギャグには笑った。これは原作にもあった仕込みなのだろうか。切って縛って身体改造を施す盆栽というのは、相手が植物だからいいけれども、どんなに美しく丹精を込めたとしても、人間を盆栽と同様にしてしまうのは、流石に、最後に鉄槌を食らわされても仕方のないところだろう。

 娘が強姦されたと勘違いし、その復讐にかこつけて己が趣味と研究の素材にしていたロベルの悪趣味は、兄嫁と知ってか知らでかロベルの妻ガルと姦通していたらしい異父弟セカ(ロベルト・アラモ)共々、兄弟そろって相当なものだ。おまけに「今日は(トラに襲われてアソコが)痛いから…」とベラに挿入を拒まれた際に「無理はしたくないから、明日でいいよ」などと、粗暴な弟とは違う所を見せていたかと思ったら、何のことはない、異父弟とは比較にならない無理を強いていたのはロベルのほうだったわけで、唖然としてしまった。ガルが逃げ出すのも無理はないという気がする。

 しかし、そのあたりまでは、多少悪趣味ながらも洗練された表現に、思わず笑いを誘われたりしたのだが、豚の遺伝子を使って女にするなどというネタは、いくら何でも物議を醸し出したりはしなかったのだろうか。いやはや、実にとんでもない映画だった。



推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/12110403/
推薦テクスト:「なんきんさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1855595243&owner_id=4991935
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20120607
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1851310970&owner_id=3700229
by ヤマ

'12.11. 7. あたご劇場



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>