美術館冬の定期上映会 “喜劇映画の異端児 渋谷実監督特集”

@『奥様に知らすべからず』['37] 監督 渋谷実
A『自由学校』['51] 監督 渋谷実
B『本日休診』['52] 監督 渋谷実
C『現代人』['52] 監督 渋谷実
D『正義派』['57] 監督 渋谷実
E『気違い部落』['57] 監督 渋谷実
F『悪女の季節』['58] 監督 渋谷実
G『バナナ』['60] 監督 渋谷実
H『もず』['61] 監督 渋谷実
I『好人好日』['61] 監督 渋谷実
<一日目>
 初日に観た四作品では、戦前の昭和十二年作品が風俗的な興味深さ以上の目を惹くものがなかった気がすることに比べ、戦後の三作品は、原作がしっかりしているせいか、どれも面白く観られたように思う。

 午前中に観た『奥様に知らすべからず』のオープニングが、ダイエット体操に勤しむ有閑夫人(岡村文子)の、繰り返し体重計に乗っては減らない目方に業を煮やして女中に明日から毎日20カロリー落とした食事にするよう命じる場面だったりすることや、戦前の紳士族の恐妻家ぶりの情けない有様といったものが、当時は、モガ・モボの出現といった大正デモクラシー以降の女権伸張や都会のプチブルの体たらくに対する揶揄ないしは風刺として、一般大衆に向けて有効に作用したであろうことが窺えた。だが、これらは今やまさに一般庶民の多くの者にとっての実情になっていて、笑うに笑えない様相を呈してきているわけで、そこのところが興味深かった。女性が強くなったのは、何も戦後に限った話ではないことが実証されていたのだが、情けない亭主の側が観て溜飲を下げられる描き方ではなく、だらしない亭主を締め上げている女房の側が観て溜飲を下げられる描き方でも無論ない。だから、一般大衆が都会のプチブルを笑った作品なのだろうと思ったのだが、今の状況からすると、いったい誰のための娯楽性なのかが危うくなってきているようなところが面白かった。

 午後から観た三作品は、三作品ともに中年女性が効いている映画だったような気がする。とりわけ志賀直哉原作の『正義派』で闇屋おばさんを演じていた三好栄子が絶妙で、獅子文六原作の『自由学校』での羽根田銀子と井伏鱒二原作の『本日休診』での湯川三千代を共に演じていた田村秋子に味わいがあったように思う。

 『自由学校』のような戦後六年しか経っていない昭和二十六年作品でも、大学教授らしい羽根田家では好事家を集めての趣味の邦楽に興じることに余念のない有閑ぶりや藤村ユリ(淡島千景)のアプレ女性ぶり、ユリの婚約者で彼女からキャンディと呼ばれていた堀隆文(佐田啓二)の軟弱ぶりには、戦前の『奥様に知らすべからず』に通じるプチブル色の漂っていたことが目を惹く一方で、河川敷に住み着きルンペン暮らしをする人々や加治木(小沢栄)の暗躍ぶりには、戦争による荒廃の影が色濃く差していたように思う。だが、最も目を惹いたのは、そのような戦後的基軸喪失のなかにあって、羽根田教授(三津田健)の甥である南村(佐分利信)が通信社を辞めて家出をし、自由になりたいと路上生活者になってしまうことや、家や職を捨てることで自由が得られるものではないと悟って家に戻り、最終的には妻のほうが働きに出て“主夫”となる顛末に窺えた時代的先取性だった。

 夫の尻を叩き続けた挙句の家出に動揺しつつ、孤閨に付け入ろうとする輩の続出に対し、富裕年配紳士(清水将夫)から軟弱アプレボーイ隆文、朴訥な逞しさを誇る肉体派の帰還兵(笠智衆)と試しつつ、いずれにも男として頼るに足るだけのものを見出せず、元の鞘に収まる南村駒子(高峰三枝子)の顛末が綴られるわけだが、駒子を誘って出た昼餉の際に、一献差しつつ銀子が諭す場面が一番の見せ場だったような気がする。駒子に対し、夫の五百助の男ぶりに過剰な期待をするから不満が生じるのだと自らの経験を語り、四十代になったある朝、夫が髭を剃るのに顔の皺を伸ばしている百面相の滑稽さを見て、やおら“男というものの滑稽さ他愛なさ”に思い至り、以来腹も立たなくなったのだと話していた。駒子の歳ではまだ無理かもしれないけれども、との年季も添えて説く女同士の語らいにこそ“自由学校”の本旨が宿っていたような気がする。駒子に「本式にまで行った男はいるのかい?」と訊ねていた台詞に、昭和二十六年当時は“本式”という符牒だったのかと笑った。

 翌年の作品『本日休診』でも田村秋子の演じていた湯川美千代がなかなか良くて、開業来、十八年になるという三雲醫院の第一号患者ながら貧しくて出産費が払えなかったツケを、取り上げてもらった息子(佐田啓二)も働き始めたからと支払いに訪ねてくるばかりか、そこに居合わせた大阪から出てきたその日に暴行被害に遭った悠子(角梨枝子)の身元を引き受け、親身に世話をする義理がたい人情家ながらも、三雲医師(柳永二郎)や湯川母子の厚情に生気を取り戻してタイピストの職を得るまでに回復した才色兼備の彼女と息子が好意を寄せ合っても、その結婚など頭から考えられない瑕物意識の拭えない母親であったりする陰影をも覗かせていた。善良さと至らなさとの間で長所短所を併せ持ち、功罪ともに刻んでいくのが人生だという点からは、三雲医師については善良さのみが際立つ別格扱いだったが、医師や教師に対してそのような持ち上げ方をすることで社会的期待を寄せるとともに、敬意を払うことによって内実を伴わせるような“褒めて育てる”ということが、そういった職種に対して枯渇してしまったように感じられる今の風潮からすれば、こういう作品に触れる意義は少なからずあるような気がする。本作を観ていると、三雲医師の善良さを醸成していたものが、彼の人となり以上に、彼に向けられる人々からの目だったように思うからだ。

 前年の『自由学校』に窺えた戦争の傷跡を本作で体現していたのは、雁を航空兵だと言って敬礼したり、バラック長屋の住人に号令をかけて整列させたりする帰還兵の勇作(三國連太郎)だった。母親お京(長岡輝子)が息子の足に縋って泣く姿には痛切なものがあったが、その一方で、彼の正気を失った突拍子もない言動にはどこかユーモアが漂っていて、その塩梅が絶妙だったような気がする。

 そして、昭和前期的な所謂“善良さと愚かさ”の間で素朴に強かに生きている庶民の営みという点で、より鮮烈な描出を果たしていたのが『正義派』だったように思う。ちょうど『本日休診』の湯川母子と同じような貧しい母子家庭のなかでバス会社の修理工の職を得た息子の清太郎(田浦正巳)から、もういい加減に闇屋商売を止めるよう言われているお京(三好栄子)が、欲張りとの顰蹙を買いながらも便利屋として重宝がられてもいる世話好きな面が手伝って、なかなか闇屋稼業の足を洗えないでいるなかで、“正しさ”というものに直面させられる。だが、いくつもの顔を持って生きているのが人である以上、一口に正しさと言っても、社会人としての正しさ、母親としての正しさ、仲間としての正しさ、商売人としての正しさ、生活者としての正しさ、など幾つもの面(オモテ)があるとしたものだ。加えて“善良さと愚かさ”の間で揺れているのだから、人の生き様というのは真に覚束ないこと甚だしい。そのなかで表(オモテ)立てられる正しさとなると、さらにバイアスが掛かるのが世間としたもので、操車監督の香川(伊藤雄之助)や青木(三井弘次)のような世間擦れをしてはいない清太郎のごとき若者が事実を証言してしまうと、苦境に追い込まれるのは如何にもありそうな話だ。

 そのときの湯川母子の顛末がなかなかの観応えだった。自身に向けられる冷たい視線が世間のものであることには耐えられても、母親の支持が得られなかったことに憤り嘆く清太郎の姿と、それによって世間擦れから我に返る母親の姿を描き出したうえで、今度は母親が苦境に追い込まれたことに対して息子の示した立ち位置というものが、やはり作り手の思う素朴な“正しさ”なのだろう。世間から浴びた冷たい視線にしても、高岡(山内明)の出現によって自ら危うくした町子(野添ひとみ)との仲の件にしても、若者の見舞われた試練の一つであり、そういった事々を経て成長していくのが“正しい”人の生なのだという大きな視座の窺えるところが素敵な作品だった。

 風俗的には何といっても、藤田(佐田啓二)と葉子(久我美子)の結婚に反対している藤田の父親 君平太(松本克平)が上京してきたというので、彼をもてなすために、お京の助けを借りて案内した東京見物のバスツァーが面白かった。それらしき設えの舞台で、面を付けて能狂言の舞を演じているのが妙に女性のような気がしたと思ったら、やおら着物を脱ぎ始め、乳房も露なヌードレビューに転じてしまい、お京と葉子が動転しているのを脇目に君平太が呆れて天を仰いでいた。思わず、僕が大学に入って東京で暮らし始めた頃に、高知から上京してきた今は亡き叔父に呼び出され、小料理屋で御馳走になった後、まだ行ったことがないだろうと日劇ミュージックホールに連れて行かれたことを思い出した。あのときには、こういう凝った古典芸能からの転換による出し物はなかったが、昭和三十二年当時には実際にあったのだろうか。

<二日目>
 ちょうどALWAYS 三丁目の夕日の描いていた時代と重なる、僕の生まれた頃から三歳位までの三作品は、東京を舞台にしていた『悪女の季節』『もず』と、東京から少し離れた奥多摩の山村を描いていた、きだみのる原作の『気違い部落』の対照が鮮やかだった。

 戦後二十年ほど経って、一日数万台の自動車が往来を走るようになった東京を俯瞰したオープニングから始まる『気違い部落』は、今では題名それ自体が許されなくなっている気がする。そして現在では、戦後社会が失ったものとしてノスタルジックに美化されがちな地域コミュニティとしての“ムラ社会”が、確実に嘗ては、因習にとらわれた打破すべきものとして捉えられていたことを証言するかのように映ってきたところに、大いに社会史的な価値のある作品だったように思う。

 ムラから都会に出たことで政治家を志し「貧乏と汚職と暴力をなくしたい」との夢を語る若い世代と対照的に、法律よりも上位の規範として機能する因習を司るボスたる村の親方の元、男は博打と酒と色遊び、女は噂と悪口とエロ話だけが楽しみで、ハレの祭りに酔って踊る憂さ晴らし的ガス抜きを後生大事にし、常日頃から親方の顔色を窺いつつ、不合理に我慢をするのが世間だと思っている旧い世代の温床としてのムラ社会が描かれていた。しかも、戦後の民主化を受けてアングラ化したことで、却って嘗ての村八分さえ壊れて村十分となってしまうような恣意的で容赦なきハズシとイジメの構図が無軌道に生まれつつあるのが“気違い部落”だったような気がする。そして、親方(山形勲)に盾突いたために娘(水野久美)の葬儀に叔父の参列さえも得られなかった鉄次(伊藤雄之助)に、それを「日本中どこも同じ」と言わせていたところが本作の面目だったように思う。鉄次の妻である気丈なお秋を演じた淡島千景が目を惹いた。

 他方、大都会東京を舞台にした『悪女の季節』は、初日に上映された『自由学校』に描かれたような戦後的基軸喪失の末に、日本が“カネこそ全て”の風潮に流れて行きつつある様を映し出した風俗喜劇だったように思う。昨秋亡くなった杉浦直樹の松竹入社第1回作品とクレジットされていたが、僕の生まれた年の映画でもある本作の冒頭が人間ドックの診断結果に喜ぶ金持ち老人(東野英治郎)の姿で、牛乳ばかりかヨーグルトの宅配までされていたりすることに驚いた。“カネこそ全て”の風潮とともに、“スピード、スリル、セックスの3S”をスローガンに徒党を組んでバイクを乗り回す若者の姿が描き出され、何とも無軌道に世の中が変わって行っている様子がやけにドライを気取って捉えられていたような気がする。この“無軌道”をキーワードにすると『気違い部落』とも通じてくるところが興味深く、まさに時代と風俗が映り込んでいる証左に他ならないが、場面演出としては少々くどく、もっとスマートに仕上げてほしい憾みが残ったように思う。

 そういった戦後的基軸喪失とか無軌道のような時代性とは異なる領域での風俗劇として生活者を描いていたのが水木洋子原作の『もず』だったように思う。『気違い部落』同様に、とても喜劇映画とは言えない作りで、二十年ぶりに再会した母娘(淡島千景・有馬稲子)の片意地と情愛の綾を活写している原作ものだった。十歳のときに別れて二十年になるとの娘を演じた有馬稲子の少し翳の差した溌剌感が目を惹き、二十歳のときに産んだ娘を愛おしみつつも口さがない女性の更年期を、シミの目立った素顔を嘆く場面とともに熱演していた淡島千景が切なく、印象深かった。

<三日目>
 最終日に観た三作品では、『好人好日』だけ遠い昔に観た覚えがあるものの、後は、これまでの二日間に観た七作品同様に、初見だった。

 最初に観た『現代人』で目を惹いたのは、何と言ってもタイトルに示されている“現代人”小田切徹を演じた若き池部良だった。『自由学校』の隆文が軟弱アプレボーイとするなら、さしづめ本作の徹は硬派アプレボーイということになろう。いつの時代にあっても、若い世代の新感覚は旧い世代の理解を超えているから、いろいろな呼称で特別視されるようだが、戦後は時代の変化が速くなったからか、僕の生きてきた五十年余りの同時代の間でさえ、いくつもの呼称を耳にしている。アプレや現代人というのは、日常口語としては聞いたことのない時分のもので、僕が同時代で耳にしたのは、“現代っ子”であったり“新人類”であったり、“共通一次世代”、“ゆとり教育世代”だったりするのだが、本作は旧世代側の抱く困惑とともに、その情けないまでの体たらくが如何なく描かれていて、なかなか興味深かった。そういう意味では、小田切の上司である荻野課長を演じた山村聡も好演だったわけだが、いずれも良しとはできない男たちの人物造形に比べ、バーのマダム品子(山田五十鈴)であれ、荻野の娘の泉(小林トシ子)であれ、女性たちはタイプが異なれど、押し並べて精神的に危うげのない安定感があって、来るべき女性の時代の強さを先取りしていたような気がした。

 『自由学校』と同じく獅子文六の原作になる『バナナ』の竜馬(津川雅彦)とサキ子(岡田茉莉子)においても、同じアプレながらサキ子のほうが格段に迷いがなかったように思うし、頼もしかった。時流とは無縁のところで生きている尾関先生(笠智衆)を描いた中野実原作の『好人好日』でも、“産まれっ放しのような先生”を支えてきた奥さん(淡島千景)が一番偉いとされていた。

 今回の特集の戦後九作品は、昭和二十年代後半から昭和三十年代後半にかけての十年間の作品だったわけだが、総覧してみると、映画という同時代性のメディアが捉えている風俗的な部分が最も興味深い作品群だったような気がする。作家的魅力というのは、あまり感じなかったし、“喜劇映画の異端児”という触れ込みながら、喜劇的な作品は半分くらいしかなく、加えて喜劇というよりはユーモア色のほうが強いように思った。そして、喜劇的側面よりは余程、社会性のほうが目立っていたような気がする。しかもそれが、作家的主題とは映らずに、時代性として映ってくるところが面白かったように思う。


by ヤマ

'12. 2.19.〜2.26. 県立美術館ホール



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