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『J・エドガー』(J.Edgar) | |||||
監督 クリント・イーストウッド | |||||
本作中に何度か出てきた「過去(歴史)に学べ」という言葉が、単純な権力者批判にはならない視座を有していることが強い感銘を残してくれる作品だったように思う。流石は自身も市長職に就いたことのあるイーストウッド作品で使われる言葉だけのことはある。公人としてのフーヴァー長官を描くのではなく、あくまでも個人としての彼を捉えたかったからこそのJ・エドガー(レオナルド・ディカプリオ)なのだろう。 思い込みが強くて器量が小さく、半端な高邁さなど欠片も持ち合わせなかったからこそ手段を選ばない卑劣さを初期から貫けたが故の鉄壁の保身と姑息。そして、自身の成り上がりと保身さえ叶えば己が領域を超えてまでの政治的野心を一切持たなかったこと。この二つによって、政局的には無害というか政敵を作らなかったために、驚くほど長く警察権力のトップとしてFBI[アメリカ連邦捜査局]に君臨し続けていられたということがよく窺えた。 徹底して下半身ネタに絞っての泣き所調査が配偶者に及んでいるばかりか、それもどうやら仕掛けたものらしいニュアンスさえ窺わせているところが、いかにもフーヴァー長官の下衆ぶりの真骨頂だったように思う。ケネディ大統領の見境のない好色漢ぶりも、ニクソンが大統領になって真っ先に入手しようとしたのがフーヴァーの秘密ファイルだったというエピソードも、どこかで仄聞したことがあるような気がするが、ルーズベルト大統領夫人の同性愛スキャンダルは、僕にとって初めて聞くものだった。 だが、肝心なのは、フーヴァーの下衆ぶりを暴き立てることではなく、権力とそれへの執着というものが彼の下劣さを壮大に開花させたさまを描き出すことと同時に、権力構造においてこそ見事に“悪貨は良貨を駆逐する”グレシャムの法則が貫かれているさまを知らせることにあったような気がする。しかも、母親の望んだ“重要人物”として、いかに長期にわたって警察権力のトップの座に君臨していても、心穏やかな幸い多き人生など決して訪れはしないことを描き出すとともに、とことん恐れられ嫌われ煙たがられる境遇にあっても、決して見放し突き放すことなく認め、つき従ってくれる人物というものがいて、絶望的な孤独に至ることはないものであることをも鮮やかに浮かび上がらせていて、なかなか深みがあったように思う。クライド・トルソン(アーミー・ハマー)とヘレン・ガンディ(ナオミ・ワッツ)の存在は、その意味で非常に重要だ。 非常に若いときから権力を手にし、保持し続けることがなければ、恐らくJ・エドガーは小賢しく狡い平凡人であって、フーヴァー長官のように恐れられ嫌われることもない生涯を送ったような気がする。過日観た芝居『橋を渡ったら泣け』のことを思い出した。全く以て、正義などという言葉は常に口実でしかない。そして、マスのレベルで人を操作するのに最も有効なのが不安の演出であり、ミニのレベルで人を操作するのに最も有効なのが秘密の弱みの掌握であることを、嫌になるほど雄弁に語っていたような気がする。そして、「過去(歴史)に学べ」の最重要事項とは即ちこのことで、安易にケータイなんぞに頼って個人情報を握られることの怖さを知ることと、マスのレベルでやすやすと操作されないようにすることに他ならないと思った。 推薦テクスト:「映画通信」より http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20120204 推薦テクスト:「TAOさんmixi」より http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1821771806&owner_id=3700229 推薦テクスト:「銀の人魚の海」より http://blog.goo.ne.jp/mermaid117/e/d69d903989b5ea7b9fa27f5ee1cdd88b 推薦テクスト: 「なんきんさんmixi」より http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1820068890&owner_id=4991935 | |||||
by ヤマ '12. 2. 9. 丸の内ピカデリー1 | |||||
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