『終着駅 トルストイ最後の旅』(The Last Station)
監督 マイケル・ホフマン


ヤマのMixi日記 2011年06月04日01:09

 本作も市民映画会でしあわせの雨傘との併映で掛けられるってことで、高知新聞から紹介記事を依頼されてのDVD鑑賞。

 堂々たる画の、堂々たる演技の、立派な作品だったように思う。本作の中で書名の登場した『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『懺悔』のいずれも読んだことがないどころか、きちんとした形で読んだトルストイの小説って、何一つないような気がするし、ソフィヤが世界三大悪妻の一人だと言われているというのは知ってたけど、トルストイ主義を掲げたコミューンというのがあったことなども記憶になかった。

 結局のところ、自ら掲げながらトルストイ(クリストファー・プラマー)自身が果たせていなかった“囚われのない自由と公平性”というものを最も体現していたのは、マーシャ(ケリー・コンドン)だったんだろうな。チェリーボーイ、ワレンチン(ジェームズ・マカヴォイ)の目覚めに実感が籠もっていて、なかなかよろしかった(笑)。

 ロシアの大文豪と稀代の悪妻という常人から掛け離れたイメージの二人を実に卑近な人間らしさで描き出していたところが出色で、「Your Youth」で始まる頭文字暗号文を最初の二つの「Y」を解題しただけで全文を読み上げるくらいトルストイを理解していた、ソフィアとの出会いを語ったエピソードが臨終の際に再現される場面が、なかなか素敵だったなー。


*コメント

2011年06月06日 10:56
(TAOさん)
素敵な映画でしたね~。私は夫婦が寝室ではしゃぐシーンが大好きでしたよ。しかし、これと”雨傘”の二本立てですか。すごいなー。


2011年06月06日 20:42
ヤマ(管理人)
お~、素直なんだなー(感心)。さすがにあのシーンは、小っ恥ずかしくて、覗いちゃいけないものを観た気がしたんですが(笑)。

この強力二本立ては、もう直球で、中高年女性狙いですよね~。映画というものが、いかに女性向け仕様になってきているかが、如実に窺えるプログラムだという気がします。

そして、ワレンチンにとってのマーシャこそが、かつてのトルストイにとってのソフィアであることを示唆した人物像の配置がピタリと決まっていたように思います。へっぴり腰で薪も割れないワレンチンをリードしていたマーシャを演じたケリー・コンドンを、例の「女優名撰」に加えようかどうしようか、ただいま思案中(笑)。


2011年06月07日 11:32
(TAOさん)
他のキャストだったら、こっぱずかしくて私もダメでしたね。ヘレン・ミレンのいい感じに枯れた個性と演技力のおかげでしょう。これが別の人だったらきっと生々しくてげんなりしたと思います。

マーシャは体型もヤマさんごのみでしたねー。もう少し出番があれば、思案は要らないのでしょうけど(笑)

私はマカヴォイ君を見直しましたよ。トルストイと夫人との間の距離のとりかたとか、理想と欲望との間のバランスのとりかたなどなど、とても素直で、いい意味でフェミニストの好青年というかんじで、これならオバチャンに好かれるわと(笑)


2011年06月07日 22:08
ヤマ(管理人)
なんか、でも不思議ですよね。いい歳こいたからかもしれないけど、ベッドシーンでセックスを見ても、こっちが恥ずかしくなる思いなんて全くなくなったのに、あんなふうに睦み合っている姿を見ると、何だかえらく恥ずかしくて(苦笑)。

マーシャの件は、そのとおりでして、もう少し出番が…(笑)。でもね、ワレンチンの手紙でああして戻って来てくれたんで、やっぱ「女優名撰」に加えることにします(えへ)。

全てにどっちつかずの初々しいマカヴォイ君は、マーシャとの関係のみならず、どの場面でも中途半端なビミョーな立ち位置にある困惑と動揺に満ちた複雑な心情を、とてもニュアンス豊かな表情で演じていて、オバン殺しでしたねー。とりわけ僕は、mixi日記にも書いた性の目覚めにおける喜びの実感と狼狽に聴牌っている風情の初々しさに感心しましたよ。ワレンチンはそうだったとしても、マカヴォイ君がチェリーボーイのはずないのに、ホントに見事でした(笑)。あれで殺されたオバチャン、きっと無数にいるはず!


2011年06月08日 20:19
(お茶屋さん)
ベッドではしゃぐシーン、私も好きです~。

狼狽に聴牌っている風情の初々しさに感心しましたよ。

殺されてたはずですが、忘れたので、もう一遍殺されに行くことにしよ(笑)。



クーちゃんとの往復書簡編集採録 2011年6月5日 14:49:05

ヤマ(管理人)
 『終着駅』もまた、女性の偉大さを描いた映画でした。チェリーボーイ、ワレンチン(ジェームズ・マカヴォイ)の童貞破りをし目覚めさせるマーシャ(ケリー・コンドン)を造形して配してあるところが鍵になっている作品です(笑)。
 ところで、紹介記事に記した「その人物造形に込められた作り手の意図」というのは、ワレンチンにとってのマーシャこそが、かつてのトルストイにとってのソフィヤとして描かれているとの意で綴っており、それを若き日のトルストイ&ソフィヤでの回想体にしていないのは、そこにトルストイ夫妻のこととして描く以上の「男女関係における普遍性」を込めているからだと観ているのですが、クーちゃんは、どのように御覧になりましたか? 男が女によって作られるものであるというのは、何も生誕の時だけではないってなことを語っている作品でもあったように思います。

(クーちゃん)
 ワレンチンとマーシャの描き方は、まずは、トルストイ主義を教条的(狂信的?)な形式に陥らせてしまったトルストイ側近たちへの抵抗、さらに愛を認めながら愛欲を禁じる主義そのものの自己矛盾への反論として、2人を際立たせて、心と体を使ってより自然な姿で愛し合うことのすばらしさを強調した。というふうにとらえました。うまく言い表せませんが…。

ヤマ(管理人)
 いえ、よく分ります。というか、それが表看板であり、表口からの素直な受け止めとして一義的には先ずそう了解すべき描き方だったと思います。僕が敢えて言及した部分は、それに上乗せしたものとして裏口的に込められているものということになります。
 で、そのように解させる鍵となっているのが、老境にあるトルストイとソフィヤのベッドでの戯れ場面ですね。鳥の鳴き声をまねてはしゃいでいる童心、これこそが彼本来の姿だとソフィヤは受け止めており、トルストイも彼女にしか見せられない姿を持っている。ワレンチンとマーシャの間にも、そのようなインティマシーがありました。トルストイにとって、ソフィヤは女神だったわけですね。ワレンチンにおいてマーシャがそうであったように。

(クーちゃん)
 ヤマさんのおっしゃるように「そこにトルストイ夫妻のこととして描く以上の“男女関係における普遍性”を込めている」とまでは昇華させて見ていませんでしたが、そういうことなのでしょうね。



推薦テクスト: 「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/archives/222
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1589597419&owner_id=3700229
編集採録 by ヤマ

'11. 6. 3. DVD鑑賞



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