『アイルトン・セナ ~音速の彼方へ~』(Senna)
監督 アシフ・カバディア


 全編通じて、僕には余り馴染みのない映像ばかりだったので、とても面白く且つ興味深く観たのだが、思いがけなくも最も感慨深かかったのは、セナの姉が設立し、彼の遺志を継ぐというアイルトン・セナ財団の管財人名として“A・プロスト”の名が映し出された字幕だった。

 F1に対して何ら興味を覚えていない僕でも、かのブームの時代を同時代者として過ごしてきているから、セナもプロストも、マンセルもニキ・ラウダもシューマッハも名前は知っているし、プロストとセナの確執についての聞き覚えもある。本作を観ていても、そのあたりは率直に映し出されていた。それでも、“音速の彼方”ならぬ“恩讐の彼方”へときちんと辿り着いていたことが窺われて何だか爽やかな気分を誘われた。F1ドライバー同士というのは、例えば、宇宙飛行士同士などにも似た、ある種、特別な関係なのだろう。他の人たちとは分かち合えない特別なものを共有しているのかもしれない。そんな気持ちにさせられた。

 セナの強引で無茶とも思えるコーナーでの攻めをプロストの言い分も了解できる形で映し出すとともに、セナの指摘するプロストの“政治的”な立ち回りを証言以上に雄弁な映像で映し出す編集を施している作り手の公平感が気持ちいい。プロストにしてみれば、想定外の過激さで傍若無人にふるまう乱暴であり、セナにしてみれば、勝利を目指してリスクを負って競り合うのは当然のことで、言わば、モータースポーツとして臨むプロストと命がけの戦闘の場として臨むセナのぶつかり合いということになるのだろう。それで言えば、プロストが予言したとおりセナは死亡事故を起こしたのだから、プロストの言い分が正しかったように思える一方で、セナの事故は、通常なら死亡に繋がるものではなかったのに、不運の極みによって例外的に死亡した事例であるとともに、ドライバーたるセナのレース姿勢が引き起こしたものではなく、メカニック側の問題であるような指摘もされていた。

 佐藤卓己 著メディア社会 現代を読み解く視点(岩波新書)に「本来あるべき“政策型報道”」に対し、マス・メディアの多くが陥っている「競馬中継的あるいは陰謀論的なニュース解説としての“戦略型報道”」について、カペラ&ジェイミソンがまとめた5つの特徴というものが紹介されていたが、①勝ち負けが中心的関心事となる、②戦争、ゲーム、競技に関する用語が使われる、③政治家(演技者)、評論家(解説者)、有権者(見物人)が織り成す物語性、④政策より政治家のパフォーマンスについてのコメントが中心、⑤世論調査の数値への影響を重視する。(P107)をそのとおりだと思いながら、本作がセナVSプロストによる浅薄で煽情的な“戦略型報道”を排した見識のもとに製作されているドキュメンタリー映画であることに、大いに好感を覚えた。

 安っぽい“物語性”を構築するために宛がわれた役割ではないセナ像が捉えられていたからこそ、彼が最も記憶に残るレースを問われて、F1で名を馳せる前のカートレーサー時代に初めてブラジルを出てヨーロッパで参戦した1978、79年当時のことを挙げ、政治にも大金にも踊らされずに純粋にレースを楽しみ追求していた時分の話を始め、その頃に戻りたいというようなことを言っていたのが、とても印象深かったのだろう。王者だったプロストがセナの登場によって焦りにも似た余裕のない心境に追い込まれている様子とともに、セナがプロストたちから強いプレッシャーを受けて苦しんでいる様子が、“戦略型報道”ではない形で描かれていることで沁み渡ってきた。当たり前のことながら、レースクイーンに囲まれ、シャンパンを浴び、観衆の大歓声に包まれる華やかさだけの仕事ではないわけだ。

 映画好きの映画三昧を揶揄されることの多い僕は、これまで幾度となく、「そんなに好きなんだから、映画関係の仕事に就けばよかったね。」と言われるたびに「好きなことを仕事にしてはいけないと僕は思う。仕事にすると、どうしたって“好き”なだけじゃやれなくなるから、一番大事な部分を売り渡し、損なってしまうことになる。それで、好きなままではいられなくなり、本末転倒になる。だから、嫌なんだ。」と答えてきたが、本作を観ていると、まさしくセナが“仕事として携わり続けながら純度を保ち続けようとしたことで至った悲劇”を体現しているように思えた。

 その一方で、備わっていた才を充分に開花させ得たのは、やはり仕事として携わればこそのことだろうとも思った。彼はそういったところを先に見通す以上に“好き”の思いが強かったからこそ、仕事にしたわけだけれども、それで言えば、僕はそれほど映画が好きなわけでもないということだろう。ともあれ、何かを得れば何かを失うのは人生の摂理なわけで、いいとこ取りはできないとしたものだが、そのなかで何を最も大事にするのかが重要なのだと改めて思った。さほど好きではないからこそ、“好き”を最も大事にすることができるというのも皮肉な話だが、いずれにせよ、単純な成功を素直に夢見られるのは、ある意味、“戦略型報道”的な物語性に毒されなければ果たせないことなのかもしれないとも思った。



推薦テクスト:「眺めのいい部屋」より
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/c1596f68b4728129359444622bd23484?fm=rss
by ヤマ

'10.11.20. TOHOシネマズ3



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