『執炎』['64]
監督 蔵原惟繕

 大映の増村監督の清作の妻['65]のお兼(若尾文子)が、負傷して戻ってきた夫を二度と出征させないために両目を潰したのに対し、日活の蔵原監督の『執炎』['64]のきよの(浅丘ルリ子)は、軍医が足を切断しないと命に関わると断じたほどの負傷をして戻ってきた夫を執念と献身で完治させたために、二度目の召集を受けて戦死させてしまったわけだが、どちらの夫婦の縁にも因習や差別といった障害を乗り越えてのものがあり、女性の情念の強さというものを印象深く描いていることでも通じており、今回初めて『執炎』を観て、僕は八年前に観た『清作の妻』を思い起こさずにはいられなかった。

 情念のインパクトの強さで言えば、増村の『清作の妻』が上回っているように思うが、『執炎』というタイトルとは裏腹に、情念よりも反戦色の打ち出しが本作のほうにより顕著に見られたような気がする。戦争のもたらした悲劇として綴り、悲しみを描くのではなく、はっきりと“憤り”として表現していたところが立派で、昭和39年作品という、時代的には今よりもこういう立ち位置での作品化がしやすかったろうことが多少あるにはしても、昨今の戦争映画とは、腹の括りようが違うように感じられた。

 女性作家の原作ものだけあって、男性論理による戦争と女性論理による反戦という対照が明確で、夫を出征させた後の二人の妻きよのと泰子(芦川いづみ)の男と女の違いについて語る対話が印象深く、後段でのきよのの“放心”の伏線にもなっていて、心に残った。死というものと直面して顔つきが美しくなる男と発狂してしまう女という、きよのの語った対比に、僕は直ちに同調するものでは決してないけれども、戦死や玉砕に向かう美学はあくまで男性論理によるもので、狂気や放心に向かってでも忌避するのが女性論理によるものだという対照には、何となく納得感がある。殺し食する性と生み育てる性という対照には、歴史的社会的なジェンダー論に留まらない動物的な生理に根ざしたものが感じられるからなのだろう。

 序盤での拓治(伊丹一三[十三])の眼前で全裸になって、磯を駆け抜け突っ走ったきよのと、終盤で還らぬ人となった夫拓治を追って、断崖の海へ駆け抜けたきよのの姿が重なり、終始変わらぬ彼女の凄烈な生き様が貫かれていたわけだが、序盤の溌剌と終盤の悲嘆との対照によって、作り手が、彼女の選んだ死を“抗議”の投身自殺として描いているように思えた。

 惜しむらくは、終始画面がほの暗く昼も夜も判然としない状態だったことだ。フィルムの劣化によってこういうことが起こったりするのだろうか。元からそうだったとは妙に考えにくいほど、些か興を削いでいたように思う。

 それにしても、この当時の浅丘ルリ子は痩せてなくていい。濡れ場のヌードシーン以上によかったのが、亡夫を想って遺骨を前に佇んでいたときの横顔で、とても柔らかくふっくらした顔つきに見えた。すっかり傷の癒えた夫とじゃれあっていたなかで、自分を背負って野の道を駆け抜けることが出来るまでに回復したことに感じ入り、その背の上で嗚咽を漏らす姿にも心打たれた。劇中での年齢は二十歳過ぎということになりそうだが、実年齢では二十四歳頃の作品だったようだ。僕の娘の歳とほとんどかわらないということに、狼狽を禁じ得ない。
by ヤマ

'10. 8.21. あたご劇場



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