『人生劇場 飛車角』['63]
『人生劇場 飛車角と吉良常』['68]
監督 沢島忠
監督 内田吐夢

 両作品とも鶴田浩二が飛車角を演じ、高倉健が宮川を演じていたが、五年先んじた沢島作品は東映仁侠映画のさきがけとなったものらしい。おとよは、両作でキャスティングが異なっており、沢島版が佐久間良子で、内田版は、藤純子だった。

 製作年次とは逆に先に観た内田監督版で、その人物造形に幼稚さを覚えて、些か気持ちの萎えた三人のキャラクターが、沢島版では随分としっかりしたものになっていて、決して吉良常の引き立て役に終わってはなかったように思う。


 二年前に観た『人生劇場 飛車角と吉良常』は、内田吐夢監督の名作との誉れの高い作品のようだが、シマ争いを狙っている相手の抱えている娼婦おとよを足抜けにかけ、小金組に匿ってもらい、丈徳組に抗争の口実を与える飛車角にしても、知らずとはいえ義理を欠いた横恋慕になってしまう色恋に、組の代貸し(大木実)に諭されようと「自分の心に嘘はつけない」と突き進む宮川にしても、♪や~ると思えばぁ、どこまでぇ~やるさ、そ~れがぁ男の魂ぃじゃぁないか~♪というのが人生劇場のテーマソングだとは言え、なんだか随分と傍迷惑な話だと思えてならなかった。

 渋くかっこよかったのは、ひょんな縁から飛車角と知り合い、彼を見守り続けた元侠客の吉良常(辰巳柳太郎)とおとよの娼婦仲間だったお袖(左幸子)で、メインの三人の幼さに比べ、大人ぶりが際立っていた。とりわけ吉良常が光っていて、飛車角との出会いの時から、格の違いを感じさせていたような気がする。小金組の親分に飛車角の使ったドスを返してもらうよう頼まれると、おもむろに包みを解いて、スッと抜いて一瞥し、「えらく深く刺しなすったんだねぇ」と呟き、それ以上は何も言わず。また、七回忌を迎えても瓢吉が亡父の墓を建てられずにいることへの用立てを構えてきたときも、親父の墓標は腹の中にきちんと建てていると拒む瓢吉の抗弁に「若旦那、流石いいこと仰る、でもね、あっしはどうやって拝めばいいんですかい?」と繰り出す台詞のどれもが渋く、辰巳柳太郎の台詞回しがまたかっこよかった。

 それに比べると、飛車角など、おとよを連れて匿ってもらってるあばら屋で、おとよから「私は芯からの幸せを初めて知った」と囁かれたことに対して「お前ぇとは、惚れてこうして逃げてきたのか、ひょんなことで駆け落ちて、こうして毎日抱いている内に惚れたのか」などと気取っている軽さだったから、その程度の色恋で出入りの口実にされたのでは小金組も立つ瀬がないし、おとよにしても、宮川から強く迫られると「角さんを思わせるとこがあるから惚れたんだけど、今じゃあんたが」などと、自分の足抜きの顛末で服役している飛車角を敢えてダシにしたうえで、踏みにじるようなことを平気で言うわけだから、少々呆れてしまった。三人の色恋模様にやむにやまれぬ想いの強さが切迫感として宿ってはなかったから、そんなふうに聞こえたような気がする。

 それにしても、みな若い! 三人に限らず、青成瓢吉の松方弘樹といい、熊吉の山城新伍といい、当たり前のことながら青年そのものだった。なにせ今や五十歳も過ぎた僕が十歳のときの作品だ。それで言えば、「歳になると若いときの無理がたたって身体のあちこちがおかしくなってくる」と言いながら、心臓が弱って、吉良常が往生したのが六十歳。見た目も確かに老いを感じさせていたが、僕の十年後だと考えると、何とも言えないものがある。もっとも、舞台は大正14年。そう言えば、ちょうどその年の江戸川乱歩の小説に「もう六十に近い老婆」というフレーズがあって感慨深かったことを思い出した。
 今なら到底許されない暴言となるところだろうが、時代の変化の大きさに改めて驚く。寿命が延びたことで老いた時間が長くなったというよりは、老い自体が遅れてきているのだろう。若年層において昔の人たちに比べて現代人の成熟度が及ばないのも、そういうことなのかもしれない。目に映る肉体的な成熟度の部分だけ早熟化しているために、その乖離の大きさばかりが目につくが、事はそういう次第のような気がする。


 五年先んじた『人生劇場 飛車角』を五年後の内田版と比較すると、筋立てとしては、おとよが宮川と出会う前に、先に玉の井に身を沈めていた内田版のほうに納得感があって、沢島版では宮川と飛車角との縁を知ったおとよが自罰的に苦界に身を沈めたというふうに運んだことで、その後の展開が妙に苦しくなっているような気がしてならなかった。

 だが、この手の作品は筋立てよりも人物像なので、三人に幼さが目立たなかった本作のほうが僕には遥かに魅力的だった。ただし、吉良常だけは、その名を題名にも織り込んでいる内田版のほうが魅力的で、本作の月形龍之介の吉良常も決して悪くはなかったけれども、内田版の辰巳柳太郎のほうがまさっていたような気がする。

 それにしても、同じく二人の男のおとよへの想いの強さを描いていても、内田版では些か幼稚に映って来た飛車角と宮川だったのに、沢島版では、素直にやむにやまれぬ想いの強さとして映ってきたから、不思議なものだ。同じ役者が演じているから、不思議さがなおさら際立つ。どこが大きく違っていたのかを思うと、飛車角が服役中の隣房の男と言葉を交わす場面が効いていたような気がする。
 内田版のような寝屋話ではなく、おとよへの想いの強さをきちんと描き得ていたからこそ、宮川を前にして飛車角が断念を告げる場面が生きてくるのだし、懲罰なしの無傷で女を譲られたことによって却って深く負ってしまった宮川の心の傷が、おとよと睦まじく暮らすことよりも、男を立てて死するほうへと彼を駆り立てたことが伝わってくるようになったのだと思う。

 惚れた女への想いの強さが世間を狭め、借りを作ることにもなっていた二人の男が、同じ女への強い想いを互いにぶつけ合うことで、結局は、女よりも“男を立てる”ことのほうを選ばざるを得なくなって、惚れた女と暮らすことを捨て去る本末転倒に向かわざるを得なくなる姿が描かれていたように思う。そして、そのようにして“男を立てること”へ向かわせたものが、まさに女に惚れたことで負ったものに他ならないという倒錯したところが、村田英雄の歌う♪男ぉ心は~男でぇなけりゃ~わぁか~るものか♪との人生劇場なのだろう。二人の男の顛末は、まさしく自分という女への想いの強さの証なのだという倒錯した理解は、到底おとよにできようはずもなく、自分よりも男の意地と面目のほうを取ったと嘆くというわけだ。確かに任侠映画のさきがけになったと言えるだけの“倒錯性”を充分に宿した作品だったように思う。




推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2020sicinemaindex.html#anchor003162
by ヤマ

'10. 7.13. & '08. 7. 3. あたご劇場



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