『シャネル&ストラヴィンスキー』(Coco Chanel & Igor Stravinsky)
監督 ヤン・クーネン


 僕が『春の祭典』をライヴで聴いたのは一度だけで、三十年余りも前の学生時分のことだが、数々のコンサート体験のなかでも格別のものとして残っている。ロンドンのロイヤルフェスティバルホールで、作曲家と同じイゴールの名を持つマルケヴィッチの指揮によるロンドン交響楽団の演奏だったが、それまでレコードなどで聴いても何がいいのやらどこがいいのやらさっぱりピンと来なかった曲が圧倒的な迫力と緊迫感の元に伝わってきて、演奏が終わった時に握った手がじっとり汗ばんでいることに気づいたという忘れがたい記憶がある。周囲に釣られてという部分もあったかもしれないが、僕がクラシックコンサートでスタンディングオベーションで拍手をしたのは、後にも先にもこのとき限りなのだが、聞き覚えのある同じ曲とは思えない新鮮な感動に興奮した覚えがある。

 その『春の祭典』が初演時には大不評を買ったというのは知っていたけれども、希代の前衛芸術プロデューサーたるディアギレフが制作し、かのニジンスキーが振り付けたというステージについては何も知らずにいたから、映画で再現してくれていたのが圧巻で、とても百年近くも前の1913年のものとは思えない前衛性に感銘を受けた。あのステージを同時代に体験できた人は羨ましいという他ない。映画では不評の罪をニジンスキーとストラヴィンスキー(マッツ・ミケルセン)が互いに音楽とダンスの不出来のせいにしてなすり付け合っていたが、確か『春の祭典』の音楽自体は、同年か翌年かのダンス抜きの公演で評価を得たと聞いたことがある。恐らくそれはダンス抜きだったからではなく、鳴り物入り興行を打って集めたであろう初演時の客層と再演時の客層の質の違いによってもたらされた評価の違いだったのではないかという気がする。そのような想像を触発する点においても、初演時の聴衆の質をさもあらんというスノッブ臭を込めて再現していて、実に見事だった。
 だが、『春の祭典』がそのように早い時期にきちんとした評価を実際に得ていたとすれば、この映画に描かれていたように1920年になってからストラヴィンスキーと知り合ったシャネル(アナ・ムグラリス)が『春の祭典』のために匿名で寄付をして公演したことで評価を得たものではないことになるのだが、そのあたりは映画的フィクションとして何ら問題ないことのように思う。
 むしろ、敢えてそういう形にしてあったからこそ、シャネルが性愛関係以上にストラヴィンスキーの才能に惚れ込んでいたことが劇的に浮かび上がるのだし、史実としての経過がどうあれ、シャネルとストラヴィンスキーの関係に、ファッションと音楽という違いはあれども共に旧来の美のスタイルを打ち壊し、革新的な創造に挑むフロンティア同士という共通基盤が根底にあったという意匠を凝らすことができるわけだ。二人の残した業績から見ても、そうすることが物語に効果的な納得感を与える作用を及ぼすうえで、有効なものだったような気がする。

 そういう意味でも映画のオープニング場面が実に効いていた。シャネルが“ボーイ”と呼ぶ愛人との逢瀬の部屋で、身に付けたコルセットを鋏で断ち割くのを愛人に手伝わせそんなことしたら、またしたくなるじゃないかなどと言わせていたのだが、彼女がファッションにおいて女性の身体を解放したデザイナーであることは、ファッションモードに全く関心がなく疎い僕でも知っているくらいに有名な話だ。そのことを想起させる場面を冒頭にいきなり設けて、彼女の革新性と前衛性を作品のなかできちんと提示しておいてから物語り始める手の足し方に抜かりがなくて、感心した。
 自ずと旧来からのモラルに対しても、コルセット同様に身を縛られないのが、彼女の選んだ“時代と格闘するうえでの自身のスタイル”になることも示していたわけで、ストラヴィンスキーとの関係が彼女の多情性によるものではなく、ある意味で必然とも言えるような運命的な出会いであることを示唆する面でも有効なオープニングだったように思う。そのうえで、シャネルが彼との関係を深めていくなかでは、ボーイの遺影を前に一人涙する姿を映し出し、観る側が彼女に奔放な多情性を見出さないようにしていた気がする。
 周到にそうしてあるからこそ、ある意味、猛々しいとさえ言えるようなシャネルの強さと主導性が、ストラヴィンスキーとの男女関係のみならず、賃上げを求める従業員との関係や香水の企画開発に係る提携研究者との関係における妥協を許さない態度に如何なく発揮される姿を率直に描いていても、少しも厭味が感じられなかったのだと思う。

 見ようによっては、シャネルにいいように振り回されていたとも言えるストラヴィンスキーなのだが、彼自身が一番の批評家だと認め、シャネルの言葉にも奥さんの校正がないと作曲もできないとあったくらいの妻カトリーヌ(エレーナ・モロゾーワ)の口から音楽が情熱的になったと指摘されるほどの創造の刺激を得ていたのだし、もはや夫婦間でシャネルとの関係に蓋をしてはおけない状況にまで追い込まれたカトリーヌがシャネルの大邸宅での借り住まいから子供たちを連れて去った後の停滞を彼が脱して、妻の手助けなしで作曲を仕上げるまでに至っていたのだから、決してただ振り回されていたわけではないことが、明確に示されていたような気がする。

 遂に一人で作曲を仕上げた彼が朝のバスタブに身を横たえていたところに、バスタオルを調えてバスローブ姿で訪れたシャネルが、バスローブを脱ぐこともなく床に腰をおろし、バスタブの縁に凭れて顔を寄せ、ストラヴィンスキーを見つめていたまなざしの柔らかさが絶妙だった。ピアノの連弾で親しんだ後の夜、全裸の上に纏ったガウンを彼の目の前で脱ぎ落して挑発した最初のときとの対照をガウンとバスローブという類似によって際立たせているのが効いていた。加えて、ボーイの遺影の前で涙する場面も含め全編通して、強く毅然とした表情しか見せることのなかった演出が効果的に働いていて、唯一このときにだけ彼女が見せていた柔らかい表情に強い感銘を受けた。本作のなかで最も美しいココ・シャネルの表情だったように思う。
 静かに見つめた後、黙って顔を近づけて彼の唇ではなく額にキスをして立ち去ったシャネルは、邸宅を立ち去るカトリーヌから貴女のモラルはどうなっているの?と問い質されたときにはそんなものはないわと強く言い切っていたけれども、妻子をこうして追いやってしまったなかで、ストラヴィンスキーの妻からの独り立ちを彼の仕事のなかに見届けたからには、もう性愛関係を含めて清算する意思を固めていたということなのだろう。

 一時の浮気ではなく不倫の関係を続けることが如何にタフであるかを、生々しくも実に品性豊かに描出した快作だったように思う。ストラヴィンスキーは翻弄されるがままに留まらず自滅にも至らず、かなり健闘していた気がするのだが、やはり主導権は女性たちにあって、男の敵うものではないことがよく描かれていたように思う。
 三人の誰もが自分の意思や心情の表明はしても、相手に対する要求や譴責による痴話喧嘩を起こしたりはしない品格を備えていて、凡人男女の現実ではなかなかこうはいかないはずのものを、歴史に名を残す強烈な個性に体現させることで説得力を帯びさせると共に、その彼らでさえも耐えかねるようなタフさがひしひしと伝わってくる緊張感と疲労感を宿らせていたのが見事だった。きみは芸術家なんかじゃない。洋服屋だとか二人の女には値しない男だったわね。失望したわといった言葉を応酬させても、決して痴話喧嘩に映ってこないところに感心すると同時に、彼らの残した業績同様に、誰彼が真似できることではないことも突きつけられたような気がした。不毛地帯に分け入った野垂れ死には終わらない不倫関係を全うすることが、彼らが歴史に刻んだ業績以上に、大変な難業であることを痛切に伝えてきているように感じた。

 それとともに、伴侶の目を掠めて交わるセックスの与える刺激と創造力というものについても、なかなか味わい深く描き得ていたように思う。シャネルが節度を保ってパトロネージュに留まっていたら、やはりストラヴィンスキーの創作のミューズにまではなれなかった気がしてならないし、また、そこを超えてしまい、彼の音楽に影響を与えたからこそ、カトリーヌが看過できなくなるわけで、このスリリングな危うさに一つ屋根の下で四六時中晒されることのタフさには、想像を絶するものがあったような気がする。どうにか持ち堪えつつも昂揚と共にひどく消耗していっているさまを生々しく演じたマッツ・ミケルセンにほとほと感心した。
 そして、シャネルもまた、彼との性愛関係があればこそ、かのマリリン・モンローが愛用したという「シャネルNo.5」を開発し得たことを映画は示していたわけで、インモラルなセックスの生み出すエネルギーには端倪すべからざるものがあるように思う。画面自体は、R-18指定のわりには思いのほか慎ましかったのだが、そういうシーンのすぐ後で、甘いだけじゃダメ、要るのは女の匂いよなどという台詞を、オリジナル香水の開発を命じた調香師に向かって発するココ・シャネルを配していた編集が強烈で、やはりR−18指定だけのことはある。思わず、香水に全く興味がなくて「シャネルNo.5」と意識してその匂いを嗅いだことのない僕も、かの香水は一度きちんとモニタリングしてみなければいけないという気にさせられた。
 なるほど成人指定に相応しい大人の映画だった。たいしたものだ。


推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20100312
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1395203970&owner_id=3700229
推薦テクスト:「あれぐろ・こん・ぶりお」より
http://ayasegawa-book-cd.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-ef01.html
by ヤマ

'10. 7.20. 美術館ホール



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