『パレード』
監督 行定勲

 悩み多き悶々は二十代よりも十代ながら、悶々としていられる猶予が乏しくなり、身を挺して己が処世の術を“なりわい”となすべく求められる強迫に最も疲れているのは、自分の遠い過去の日々を思っても、やはり二十代だったように思う。幸か不幸か僕自身は、進学のときと同様に成り行き任せのまま、否応もないような形で職が絞られ、家庭を持ち、二十代後半には既に早々と三人の子の親となっていて、なかなか慌しい二十代を過ごしたから、身の処し方を迫られる圧迫感に疲れ果てる暇がなかっただけのような気がしている。

 島根の鮨屋の倅である21歳の文系大学生の良介(小出恵介)、同郷の恋人が新進俳優として売出中の無職と思しき23歳の琴美(貫地谷しほり)、イラストレーター志望ながら事務系OLで燻っている酒癖の悪い24歳の未来(香里奈)、健康のための毎日のジョギングを欠かさない律儀さで生真面目に映画配給会社で働く28歳の直樹(藤原竜也)。
 ルームシェアをしている四人の二十代男女の四者四様の個性と処世に、ある種の奇妙さが生々しい現実感とともに宿っていて感心したが、程の良い距離感で共同生活をしている彼らに共通していたのが、己が人生をどう生きるかということに、そろそろ答えを出さなきゃいけない息苦しさに迫られている感じだった。

 男娼暮らしの宿無しのまま転がり込み居ついた18歳のサトル(林遣都)の存在が効いていて、最も不安定で宙ぶらりんな境遇にありながら、四人の誰よりもサトルが軽やかでいられるのは、彼自身のキャラクターというよりも、彼だけが唯一の十代だったからのような気がしてならなかった。そして、二十代の四人は、遠き昔の僕自身がそうであったように、少々持て余し気味な“エネルギーの過剰さをもたらす若さ”という厄介を抱えたなかで、自己実現に大した可能性も感じられず、これといった大志も野望も抱けないままに、“潔く成り行きに任せるほどの覚悟も持てないでいるにもかかわらず、何事かに向けての踏み出しも行なえないでいることへの猶予だけが確実に残り少なくなっている強迫感”に苛まれているように感じられた。

 28歳の直樹が発し10歳年下のサトルが口真似した“exactly”という単語が耳に残ったが、決してexactlyに生きられるものではない人生なのに、正解を求める努力と挑戦を強迫されるのが二十代だという記憶が僕のなかにはある。そのことに最も生真面目に「世界を相手に闘う」ことをしていたのが恐らくは直樹であって、不安定な宙ぶらりんを排除すべく、コーヒーさえ口にしない律儀さで身を律し弱みやぼやきを追い遣る無理を課していたことが、誰からも当てにされ頼られる部分を形成すると同時に、桁外れの歪をももたらしていたということなのだろう。
 サトルが、四人の二十代各人は虫の好かない奴らばかりだけども「あの場所はなぜか居心地がいいんだ。」と言っていた彼らの共同生活の程の良い距離感が醸し出す“場の空気”の描出が鮮やかだった。その心地よさも先述の強迫感もともに“二十代に備わっている猶予”が生み出しているもので、その心地よさが不安定な宙ぶらりん感を増幅させるものであることを感じさせてくれるところに大いに感心した。

 それは、ある種“魔物”でもあって、それを感じ取ったからこそ直樹の元恋人は出て行ったということなのだろう。物語の終盤では、良介も琴美も程の良い距離感を保っている共同生活を清算する心づもりをしていたようだったが、良介が思い描いていた形での帰郷による田舎暮らしは恐らく実現しないだろうし、琴美の帰郷の形も彼女のなかでは繰り返し悔恨の種となって甦りそうな気がしてならなかったから、魔物から逃れるだけでは事足らないわけだ。そういう形で出て行っただけの直樹の元恋人が直樹の元に再び戻って来たがっている姿を示していたのは、作り手のそういう意図なのかもしれないという気がした。

 全く以って二十代というのは難儀な季節だ。中年期を迎えた頃から、周囲では若い頃に戻りたいといった声がよく聞こえるようになったのだが、僕は一度もそんなことを思ったことがない。悶々とした陰鬱な十代や難儀で危なっかしかった二十代のことを、どうして皆そんなに綺麗さっぱり忘れていられるのだろうと不思議でならないのだが、そういう二十代の難儀な危うさをよく描き出している作品だという気がした。軽やかなタフさを体現していたサトルは、十代を通り過ごした後、果たしてどういう二十代を過ごすのだろう。



推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1427338286&owner_id=3700229
by ヤマ

'10. 6.19. 高知市自由民権記念館



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