美術館夏の定期上映会“ケベック映画祭”

『生きるために必要なこと』
(Ce Qu'il Faut Pour Vivre)['08]
監督 ブノワ・ピロン
『大いなる休暇』
(La Grande Seduction)['03]
監督 ジャン=フランソワ・ブリオ
『天国の青い蝶』
(The Blue Butterfly)['04]
監督 レア・プール
『全ての希望に反して』
(Contre Toute Esperance)['07]
監督 ベルナール・エモン

 東京では昨年9月に行なわれた企画のようだが、かねてよりカナダ映画には惹かれるところが多く、楽しみにしていた上映会だ。タイトルがカナダ映画祭ではなく、ケベック映画祭となっていたから、カナダのケベック州ゆかりの映画かと思っていたら、チラシにアメリカやフランスの文化の影響を受けつつ、独自のアイデンティティを確立してきたケベック映画とあったから、“ゆかりの映画”とは異なる定義づけによるようだが、カテゴリーとしての“ケベック映画”とは何を以って指すのだろう。

 カナダ最大の同州の公用語は、唯一他州と違ってフランス語であるとの紹介が、高知県立美術館長の開会挨拶のなかでされたが、『天国の青い蝶』は英語作品だったし、通常地名を挙げて「〜映画」と言うときは国名であって州の名が挙がることがないのは、日本映画に四国映画や九州映画というのがイメージできないのと同様で、唯一の例外がハリウッドだと思っていた。そして、それらは基本的に「製作」に着目して付けられる資本サイドからの呼称で、合作が多くなり、スタッフ・キャストも国際的になってきた現状からは国名で呼称をつけることさえ意味がなくなってきているなかで、敢えて州名によってカテゴライズする映画作品としてのアイデンティティを何に置くのかというのは、実に興味深い研究課題だと思うのだが、チラシでの記述は、そういった問題意識を自覚したうえで「ケベック映画」としてカテゴライズをしているのか、少々疑問に思える言葉の使い方のような気がした。
 東京で行なわれた映画祭は、美術館のような学芸機関の主催ではないから、そういった術語的なところに無頓着であっても仕方がないように思うが、美術館主催となれば、そういう学術的な観点からも配慮が要るような気がする。だが、近頃はアカデミズムなどというものは、とんと流行らぬことなので、学芸畑でも産振・観光畑でも大差ないのだろう。

 だが、それはそれとして、所用があって見逃した二日目の作品はさておき一日目に見せてもらった4作品は、いずれも秀作で大いに満足した。若いときと違って、流石に続けて4本も観るのは苦になってきているのだが、午後一時過ぎから午後八時過ぎまで続けざまに観ても、些かも疲れも倦みもしなかった。作品の質が高かったことが一番だが、100分前後の作品ばかりで2時間ものやそれ以上に長い映画がなかったことも大きいように思う。やはり映画作品は90〜100分にまとめてほしいものだと改めて思った。

 4作品では、最後の作品を除き、3作品ともが、映像としても物語としても素直に“美しい映画”であることと、人と人との出会いによる“関係性が生み出すものの掛け替えのなさや絆”を描いている点で、共通していたように思う。最後の『全ての希望に反して』には、さすがに美しい物語と言うことの憚られる厳しさがあったが、それでも幼馴染の絆や夫婦の絆への信頼が基調としてある点では通じており、4作品ともに対して非常にモラリスティックな価値観と主題性を感じた。

 それこそがケベック映画というもののアイデンティティと呼べる次元に至っているのであれば驚くべきことだが、『天国の青い蝶』の脳腫瘍で余命数ヶ月と宣告された10歳の少年ピートが、世界的な昆虫学者オズボーン(ウィリアム・ハート)に「母さんは完璧な男は好きじゃないよ」と言っていたように、そう望ましいことではないように思う。『生きるために必要なこと』の若くて美しく、イヌイットを差別しない献身的な看護婦キャロルに感謝と信頼を寄せるようになった、仏語を話せないイヌイットの結核患者であるティービーが、仏語の話せるイヌイットの少年カキに通訳させて「一緒に寝たい」と伝えて怒らせたことに対し、「嫌なら断ればいいだけなのに」とぼやいていて僕はニンマリしたのだが、カキから「だから通訳するのは嫌だったのに」と言われて「子供のお前に女の何がわかる!」と返すと「フランス語も話せないティービーに白人の何がわかる!」と切り返されるくらいに、完璧じゃないところがいいわけだ。

 4作品のなかでも強い印象が残ったのは『大いなる休暇』と『全ての希望に反して』だった。

 島民のほとんどが生活保護の受給者で、給付証の届く日には郵便局の家の窓口に長蛇の列ができ、銀行の出張所に唯一来客のある日となるなか、苦境からの脱出のために工場誘致を画策していた町長からして生活が成り立たず、こっそり都会に逃げ出て警察官の職を得る始末だった『大いなる休暇』は、労働で得た収入でささやかながらの食卓を満たせることこそが人の「幸せ」の源であり、しかも必要かつ“充分”条件であって、そのことを就寝時に日々確認できる毎日以上にまさるものはないことを訴えているような作品だった。嘗ては漁業で島民の生活が成り立ち、その幸せのときが夜毎訪れていたという時代を描いていたオープニングと、島民の団結力とマジカルな出会いによって120人の全島民が生活保護から抜け出せる職を得たことで取り戻した、嘗てと同じ夜の訪れを描いたエンディングの対照が、とても素敵だった。
 人と人との出会いがマジカルな力を発揮する関係性となるには、偽りの策略やぬか喜びを与えることでは叶わないという実に真っ当な主張が堂々としていて、度を過ぎた策略のやりすぎ感を補って余りある爽やかさだった。島外に脱出した町長の計画を継ぎ、工場側の条件だった駐在医師の確保を果たすために、島民ぐるみで原題の「大いなる誘惑」を島に訪れた医師に対して仕掛ける呆れるばかりの大作戦がコミカルに描かれるのだが、背に腹はかえられないと弱みに付け込んでまでなりふり構わず篭絡しようとしていたリーダーのジェルマン(レイモン・ブシャール)が、青年医師クリストファー(デヴィッド・ブータン)の見舞われた心の傷の深さに気づいたことから疚しさを覚え、改心して真実を告げる顛末の描出に、豊かな人情味とシリアスな社会性が込められていて、上々のエンターテイメントになっていたように思う。島のマドンナとも言うべき美人郵便局員リュシー(エヴ・ボーシュマン)のナイス・バディも大いに目を惹いた。

 長距離トラックの運転手ジルと電話交換オペレイターのレジェンヌという共働きの幼馴染夫婦が、自分たちの身の丈を少々超えたクラスの念願のマイホームを手に入れた直後に、ジルが脳卒中で倒れ、失業と後遺症に自暴自棄になりながらも妻や幼馴染の親友クロードに支えられてようやく前向きに生き始めたのに、レジェンヌの会社がオペレイターという現業部門をアウトソーシングする経営合理化を図ったために、更なる収入減から家も手放すしかなくなったうえに、ジルが再度の卒中に倒れてしまいリハビリで回復しつつあった後遺症が最初よりも重くなるというダメージを受けて自殺に追い込まれていた『全ての希望に反して』は、不幸のつるべ打ちを描いていたにもかかわらず、むしろその苦難と格闘するレジェンヌの健気な靭さと幼馴染の友情の篤さが心に沁みてくる作品だった。だからこそ、夫の遺品の猟銃を手にしたレジェンヌがやり場のない悲しみと憤りに電話会社のやり手の会長宅を乱射してしまう事件の顛末に胸が痛くなったのだろう。
 クロードと楽しんでいた趣味の狩猟に連れ出てもらったジルが、鹿を仕留める絶好のチャンスに邪魔立てをせずにいられなかった、自殺を図る直前の心境が痛切に響いてくる作品でもあったように思う。カナダで最も高額の報酬を得るビジネスマンの一人としてTVでも報じられ、豪奢に飾り立てられた大邸宅に住むほどの成功を得ていてなお、経営合理化を推し進めて会社の利益向上を図る代償に、現業部門で働いていた妻の給与をアウトソーシングによって半減させ苦しめることなど一顧だにしない強者の有様が、自分たちの熱中していた狩猟に重なり、彼らが経営ゲームに興じるように野生動物の命を弄ぶ不遜な行為だと映るようになったのだろう。アウトソーシング先に再雇用された後、結局離職を余儀なくされ、ケータリングの職に就いてたまたま会長宅でのパーティに赴いた際に「給料には公平性が考慮されなければならないなどというのは、実に愚かな話だ。給料は市場によって決定されるべきものだ」などとテーブルスピーチで嘯いていた会長の言葉を耳にしたレジェンヌの胸中を思えば、夫の自殺に動転した彼女の凶行を責める気にはなれない。
 カナダはアメリカと違って、日本以上に社会制度としての福祉が整い、労働者の権利保護やデモクラシーが根付いている国だという印象がずっとあったのだが、本作を観ると確かにそういう部分を窺わせながらも、今世紀に入ってからは日本と同じく、グローバリズムの名のもとにアメリカが世界を席巻した市場原理至上主義的なニューキャピタリズムの影響を被っていることが偲ばれた。だが、この当時の日本に、本作に匹敵するような映画作品が生まれていただろうか。すぐさま思い当たらないのが残念だ。



*『大いなる休暇』
推薦テクスト:「Puff's Cinema Cafe」より
http://www.ff.e-mansion.com/~puff/2005b.htm#La Grande seduction
by ヤマ

'10. 5.15. 美術館ホール



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