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美術館夏の定期上映会“世界のアニメーション作家たち”
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二日続けて7プログラム66作品を鑑賞したが、最も目を惹いたのは、初日の最初のプログラム『ノーマン・マクラレン作品集』の最後に上映された『パ・ド・ドゥ』('68)だった。バレエの動きを残像によって流れの長短でリズムを取るかのようにして捉えたモノクロ作品だが、パ・ド・ドゥとのタイトルにもかかわらず、女性の踊子一人の動きしか出てこなかったので、人物と影(残像)によるパ・ド・ドゥという趣向かと思っていたら、しばらくして男性が加わり、本当のパ・ド・ドゥになった。残像の長短で視覚的に示されるリズムが面白くとても効果的で、女性一人の踊りのときでも優雅さのなかに官能性を窺わせていた動きがパ・ド・ドゥになって、遥かに豊かに息づき始め、大いに魅せられた。 ノーマン・マクラレンが実験映画として使用していた技法は、ダイレクトペイント、ピクセレーション、カリグラフィーなど多種多様に渡っていたが、映像と音との同調を印象づける作品が多いところが特徴的だったように思う。プログラムのオープニング作品『マクラレン開会の辞』でクレジットされていた文字が英語とフランス語の二段書きだったように、主にカナダで活躍した作家のようで、'40~'71年の作品が上映されたわけだが、彼に大きな影響を与えたとのレン・ライの作品集を観ると、レン・ライよりも遥かに洗練されている気がした。 しかしながら、レン・ライの作品は'29年から始まっているのだから、驚くほかない。アニメーションに留まらない全映画史上の金字塔とも言えるディズニーの『ファンタジア』が'40年の作品だから、'30年代の彼の仕事が『ファンタジア』に大きな影響を与えているのは間違いないという気がする。見事なまでの完成度の高さを誇る作品が突如として現れるわけでは決してないはずで、同じようなことを試みていた先駆者というのが存在して当然なのだ。そういう意味では、非常に貴重な作品を観る機会が与えられたように思う。しかし、せっかくノーマン・マクラレンとレン・ライの作品集を組みながら、『ファンタジア』をプログラミングしていなかったことが惜しまれるようにも感じた。それとともに、『ファンタジア』の製作に際しアドバイザーを務めたオスカー・フィッシンガーの作品を観てみたいものだと改めて思った。 その一方で、レン・ライ作品集で僕の目を最も惹いたのは、オスカー・フィッシンガーとともに抽象アニメーションの始祖とされているらしい彼のアニメーション作品ではなく、戦時中のイギリス政府の広報映画として撮られた『殺すか殺されるか』『戦場のカメラマン』だった。戦場での臨場感が強調されていたが、レン・ライ自身は現場としての戦場に赴くことなく作られていたような気がした。しかし、そこに現れてくる時間のなかに緊迫と弛緩が見事に浮かび上がってきていて、その絶妙の編集と演出に感心させられた。 一日目のプログラムで観る前に最も期待していたのは、『ピアノチューナー・オブ・アースクエイク』だったが、いかにもブラザース・クエイの作品らしい魅力は健在で充分楽しませてくれたものの、彼らの長編劇映画としては、十二年前に観た『ベンヤメンタ学院』のほうが魅力的だった。どこか江戸川乱歩の小説世界を想起させる妖しい物語だったが、もっと面白くなってもいいはずの作品だと思う。 二日目のプログラムで楽しみにしていたのは『動物農場』だったが、なぜに『ルパン三世』のTVシリーズが今回のプログラムに入っているのかと思ったら、『動物農場』の配給が三鷹の森ジブリ美術館だからなのだろう。『ルパン三世 1st TVシリーズ』では、主題歌と共に流れるクレジットのバックに出てくる場面の元になっている物語から3話を抽出したようだ。当時TVで観たときは、もっと躍動感があったように感じるのは、僕の側の感受の仕方の経年変化のように思った。 ハンガリーアニメの31作品は、午前のAプロと午後のBプロに分けて上映されたが、作家構成はABとも同じだった。興味深かったのは、ちょうど日本の『まんが日本昔ばなし』のシリーズに相当するような番組だと思われる『ハンガリアン・フォークテイルズ』のシリーズだった。『まんが日本昔ばなし』のオープニングとエンディングの歌が耳に残っているように、このシリーズのオープニングとエンディングも13話も観ていると妙に馴染んでくる魅力を持っていた。古今東西に共通することなのだろうが、民話というものは、それが伝承だからやむないにしても、少なくとも子供向きとは言えないような理不尽な話や人権感覚から懸け離れた物語が多い気がする。『ハンガリアン・フォークテイルズ』にも随分と思える話がいくつもあった。しかし、おそらくかの地でも、子供向け番組として扱われているのではなかろうか。今回の全プログラムのうち、『ピアノチューナー・オブ・アースクエイク』と『動物農場』にのみ「※小さなお子様向きではありません!」との注書きがチラシに施されていたが、“小さなお子様向き”の尺度をどこに置いての2作品の選別だったのかよくわからない気がした。 今回の上映会のクロージング作品は五十五年前に製作された『動物農場』だった。原作者のジョージ・オーウェルは、三十年前の学生時分の卒論で“プライヴァシーの権利”の考察をした際に、データバンク社会の出現とか管理社会といった観点との関連で『1984年』を知ったときに記憶した名前だが、当時『1984年』以上に面白そうだと思いながらも、翻訳書を見つけることができなかった覚えがある。原作をほぼ忠実に映画化しながらもラストを改変しているらしいが、権力というものの本質を考えるうえで示唆に富む普遍性を備えた作品で、特定の権力体制を批判するに留まるものではないという気がした。スターリン亡き後も、世界の数多の国にナポレオン豚のような輩はいるだろうし、スノーボール豚のようにして排斥されるのがトロツキーだけに限ろうはずもない。社会体制の差異など問題にならない次元での人の権力欲や支配欲、それがための策略や堕落、そして、それを許し彼らに牛耳られてしまう隙や想像力の乏しさ。それについては、大小を問わず体制の差異を問わず、権力のあるところ必ず付いて回ることに他ならない。 推薦テクスト:「しらちゃん日記」より http://blog.livedoor.jp/sirapyon/archives/51492003.html | ||||||||||||||||||||||
by ヤマ '09. 8.15.&16. 県立美術館ホール | ||||||||||||||||||||||
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