『大阪ハムレット』
監督 光石富士朗


 上映会主催者から見所コメントを求められて、松坂慶子が27歳のときに『水中花』で売れっ子になって、19歳の頃の大映作品夜の診察室が発掘上映されたのは、僕が大学卒業前後の三十年近く前。そのとき“ダブルケイコ”だとかいって、3歳下の関根恵子の大映時代の作品も併せて発掘上映されていた覚えがあるけど、二人がともにまだ若く初々しかった頃は、僕は断然、関根恵子のほうが好きで、松坂慶子に強く惹かれるようになったのは、道頓堀川を観たときからだ。だから、彼女が三十路を迎えてからということになるが、以降、僕より6歳年上になる彼女は、可愛らしさと共にある艶っぽさでずっと魅了してくれていた。そんな彼女が、次に新たな魅力で鮮烈な印象を残してくれたのが卓球温泉で、御年46歳の中年期だった。歳を重ねても失われない可愛らしさが年季の育んだ柔らかみのなかで熟成され、むしろ際立つようになっていると感じたものだ。
 その松坂慶子が56歳になって、中学3年生を筆頭にした三人兄弟を抱えるシングルマザーで誰の子とも知れない赤ん坊を宿した妊婦を演じるという。天真爛漫でのんきな母親らしいのだが、彼女がどんな肝っ玉母さんを演じているのかが、今回の僕の一番の注目どころだ。
 作品タイトルのハムレットは、悩める次男坊の姿に学校の担任教師が与えた呼称ながら、意図を理解できなかった次男が原典に当たって、自分の複雑な家族関係のこと指していると勘違いし、怒りと共にさらに悩みを深めるとのエピソードから来ているようだ。前に付いている“大阪”こそは、笑いと武勇伝を好む大阪文化を指しているらしい。大阪弁自体が持っている言葉の俗っぽさと遊び感覚が、シェークスピアとも通じる部分があるとの思惑も込められているような気がする。
と寄稿していたのだが、そこで予想していたことの全てが盛り込まれ、且つ予想を上回る味わいの宿った好作品だったように思う。

 どうやら3人の息子、政司(久野雅弘)・行雄(森田直幸)・宏基(大塚智哉)とも父親が全て違うと思われるなか、中年の身で未亡人となってから後にお腹が目立つようになった妊娠をしている房子(松坂慶子)をはじめ、登場人物の全てが、傍目には些か顰蹙もので失笑を買いかねない困り事のようにも映りながらも、当人にとっては真剣で深刻な悩みに他ならないものを抱えていたのだが、近親者の抱えている悩みに対する久保家の家族たちの態度の持ちようが絶妙で、懐深く味わいがあった。それこそ肝っ玉母さんである房子の薫陶に他ならないものだろうが、その核心にあるものは、人が真剣に大事にしている行動に対しては自身の価値観による評価を加えることなく尊重して馬鹿にしたり非難したりしないという態度だったように思う。だからこそ、小学生の宏基にも「真剣やから、からかわんとってください!」という主張が出来たような気がしてならなかった。そこには憧れの夭折した叔母亜紀(本上まなみ)を見舞うなかで宏基が得た病床での関わりも大きく作用していたのだけれども、亜紀が大きく歳の離れた姉房子を“ちい母ちゃん”と呼び、姉に育ててもらったようなものだとしみじみと言っていたのだから、亜紀の生き様をも含めて、房子の薫陶だと言っていいような気がするわけだ。大きな大きな受容力というものを体形からして、まさしく体現していた松坂慶子の尻の大きさが、“オカン”そのものだったように思う。

 他方で、人の真剣な思いの発露に対してささやかな綻びを理由に踏みにじることは断じて許さないから、夫亡き後、居候となった“おっちゃん”と呼ぶ無職のヘタレ義弟(岸部一徳)が家族としてまとまり馴染みたい思いから、なけなしの金で一家全員分の揃いのTシャツを買って来たことに対して、パチもんやと嘲笑して着たくないと言った子供らにその頬を張ってまで怒るのだろう。こういう房子だから、その薫陶は義弟にも及び、彼は仕事に就こうとするようになるのだ。おそらく彼女は、一度も仕事に就けとは言ってないと思う。おっちゃんと観に行った宏基がシンデレラを演じる学芸会で、「もう大人なんやから」と呟くようになっている中学生の子供たちに対しても、同じような態度で臨んでいるからこそ、薫陶を果たせるのだろうと思った。しかし、二人の息子が抱えていたものは、行雄の自分探しの過程における不良構えの喧嘩っ早さにしても、政司の高校受験を前にしながらの偽った外泊旅行にしても、いずれも親の態度として、そのように腹を据えて臨むのがなかなか難しいところなのだが、房子の態度を観ていると、親が子供たちに向かうべきものが“信頼”以外の何物でもないことがしみじみ伝わってくる。まだ小学生である末っ子の宏基の抱えていた問題は、上の二人の問題以上に重たいもので、子供の歳がまだ幼いだけに親としての向かい方のありようが難しく、さすがの房子にも困惑と迷いが窺えたところに説得力と納得感があり、上の二人への向かい方も含めて房子の養育態度が決して放任主義などではないことを物語っていたように思う。そのうえで、房子の選んだ受容が生半可の覚悟で臨めることではないことが偲ばれるものとして、宏基の抱えていた問題が性同一性障害であるという設定は、なかなか効いていた。
 七歳年上の大学生の由加(加藤夏希)が恐らくは自身でも些か持て余し、彼女の悩みと劣等感の種にもなっているであろうファザコンに対して、政司が取った受容の態度というのは、そのような房子の薫陶ゆえのものだったような気がするし、弟の行雄を含め、多感な中学生の二人が、母親の思い掛けない妊娠や末弟の性同一性障害に対して取る態度にも、そのようなものが表れていたように思う。そして、それこそが“愛”と“情”すなわち“愛情”であることが伝わってくる作品だった。

 それにしても、『大阪ハムレット』とは巧いタイトルだ。大阪ならあり得なくないと思えるこの家族像が東京だと想像できない気がしてくる。大阪というよりも関西ということなのかもしれない。思えば、『サッド・ヴァケイション』で「男の人は好きにしたらエエんよ」と呟いていた千代子(石田えり)は、九州女性だったが、父親が誰であるかということなど、“オカン”たることにブレのない女性においては、さしたる大事ではないのだろう。



参照テクスト「映画通信」掲示板過去ログ編集採録


推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20090209
by ヤマ

'09. 5.29. 自由民権記念館・民権ホール



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>