『モダン弥次喜多土佐道中』('37)
監督 丘虹二


 昭和12年当時にして、本州から高知に来るには三つのルートがあったようで、映画の冒頭で図示されたのだが、最初に示された航路が大阪-神戸-室戸-高知、二番目の空路が大阪-小松島-高知。この作品の制作契機となった昭和12年の「南国土佐大博覧会」が鉄道省の土讃線開通を記念してのものだったことを考えると、三番目に示された陸路は、高松経由で映画制作の二年前に全通していた鉄道なのだろう。だが、さすがに70年も前のことだから、航路・空路とも僕の経験している路線とは経由地が異なっていた。  航路で僕が乗船経験のある今はなき大阪高知特急フェリーの寄港地は、確か甲浦だったし、空路は、直行便しか経験がない。当時どのルートが最も一般的だったのかは不明だが、映画では、なぜか弥次さん喜多さんが昭和の時代に旅していた。映画では、高知まで乗船した弥次さんが室戸で下船してしまった喜多さんを迎えに行っていたが、車で三時間とかいった字幕の出てくる無声映画だった。そういったルート上の関係だろうが、当時は、室戸が観光地としても名高かったようで、「日本八景」との看板が映っていた。
 龍河洞はともかく、大山岬や野根山二十三烈士の墓が県観光映画協会制作の映画で、こんなに大きく扱われているとは思いがけなかったが、高知の観光地として今なお誘客の多い高知城や桂浜だけでなく、五台山や種崎千松公園に加えて浦戸周遊の吸江十景が紹介されていたことに隔世感を覚えた。高知より西は、足摺岬も四万十川もいっさい登場しなかった。そして驚いたのは、高知城三の丸に構えた噴水公園の立派さと藤並神社の鳥居の大きさだった。
 “酒を飲んで芸妓と遊んで”が売りのところには、やはり『鬼龍院花子の生涯』の当地ならではのものを感じたが、県東部から高知入りした弥次さん喜多さんが、先ずは当時の高知県知事小林光政“閣下”を訪ね、続いて高知市長・助役を訪れて挨拶するばかりか、次には商工会議所会頭の野村茂久馬に挨拶に行くところが延々映し出されるのを観て、南国土佐大博覧会に合わせて制作されたとのこの作品が、いったい誰のために作られたものなのか不思議な気がした。その後の依光蒲鉾や大原珊瑚店の扱いなどを見ている内に、映画制作に出資したスポンサーのための内輪ものだと気づいたのだが、野村茂久馬が建設中の四階建の自社のホテルの工事現場を案内する図に至っては、いささか呆れた。
 土讃線開通記念の博覧会でのPR映画なのに、土讃線が全く登場しない件については、当日配布された資料チラシに制作に高知商工会議所のほか、土佐商船鰍熬に名を連ねています。高知商工会議所会頭であり、“土佐の交通王”といわれた野村茂久馬は、当時土佐商船梶E野村自動車等を経営しており、鉄道は旅客を奪われかねない脅威でもありました。そこで、筋書きも弥次喜多の二人が神戸から船で浦戸に向かうという設定になっています。と記されていたことに後で気がついたが、さればこそ、高知観光映画協会制作としながらも、ほとんど野村茂久馬の個人映画のようなものだったわけで、それなら、このような作品になっていることにも得心がいく。非常に適切な資料添付だった。
 それでも、70年前の高知が映っているのを観るのは興味深く、路面電車の走り具合や往来の人々、店構えなど興味は尽きない。蒲鉾製造に係るすり身の練りが既に機械化されていたことや珊瑚の彫りにも電動工具が使用されていたことが目を引いた。そして、当時から何もないと言われていたらしい播磨屋橋の伸びる簪飴というのも記憶に残った。また、当時の県知事がどのような位置にある人物かを推察するうえで、弥次さん喜多さんが知事を訪ねた場面が興味深かった。小林知事の執務室らしい立派な洋室に入るや否や忽ち平伏して拝謁をしていた。市長を訪ねてもそうはしなかったのだから、官選知事ゆえに特別な雲の上の人ということかと思った。それが当時の実際なのか、弥次喜多だから藩主に見立てての演出なのかは判じかねたが、仮に後者であったにしても、今ならそういう演出自体を知事側が受け入れないだろうから、どちらにしても隔世の感があろうというものだ。映画としては御粗末極まりない作品ながら、時の経過を潜り抜けて残った映像には、それだけでもって絶対的な価値があると改めて思った。
by ヤマ

'09. 1.10. 自由民権記念館民権ホール



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