『人間椅子』
監督 佐藤圭作


 姿を見せぬままに触覚・嗅覚からの妄想にて性的興奮を覚え恋する男の話という、およそ映像化には馴染まないであろう江戸川乱歩の短編『人間椅子』をどのように映画化しているか興味があったのだが、やはり少々無茶な試みだったような気がした。
 椅子の中の男の書いた小説だというところは原作と同じながら、原作では、男の書いた作品を届けた後からの手紙として閨秀作家の佳子が受け取った部分に「『人間椅子』という題で作品として世に出してほしい」と書いてあったことまでが、映画のほうの小説原稿の末尾に残されていて、原作すなわち乱歩の著した作品全体が堀田の書いた小説になっていた。原作では、実際に佳子の椅子の中に男が入っていたのかいないのかが不明のままの並外れた妄想の凄みに感嘆させられたわけだが、その点は、映画がまるまる実際に人間椅子の存在を前提にしていたことで、かなり損なわれていたように思う。だが、それ以上に根本のところで大きく違うのは、原作の人間椅子は、人知れず密やかに官能に打ち震えるところがミソなのに、映画化作品では、佳子(小沢真珠)の側にも薄皮一枚隔てて椅子の向こうの男と交わっている意識が明確にあったことだ。
 仕方がないと言えば仕方がないのは、原作どおりだと肝心の官能場面が、ただ単に普通に椅子に腰掛けている佳子の姿を映し出すだけにしかならず、佳子を下着姿にしたり、椅子で悶えさせたりしにくくなるからだろうが、そんなふうにしてしまっては、原作の人間椅子の男の妄想の隠微さは全くなくなってしまう。やはり原作に忠実な映画化は、絶望的に困難な作品だという気がする。同種の分かりやすさのために、椅子の中に入る男の倒錯性自体についても、ある意味、最も判りやすい変態としてのマゾヒストに設定してあった。だが、それだと椅子の中の男の感じている官能の質や変態性の質がまるで異なってきてしまう気がする。それを補うかのように、この作品の中で特異な変態性を見せていたのは、かつて作家志望だった新米編集担当の倉田真理(宮地真緒)なのだが、その特異な変態性が映画の中で巧く活かされていたとは、とても思えなかった。
 それにしても、原作を違えてまで直接的なエロシーンを構えるのなら、せっかく下着姿にした佳子の尻はTバックとまでは言わないにしても、せめてスキャンティくらいには見せてくれないと納得できない気がする。尻肉を下着で全部すっぽり包み隠すような半端なことをするくらいなら、何のための改変なのか合点がいかない。佳子と真理のレズシーンに展開するかとの運びを見せる場面も同様で、真理と編集長(板尾創路)のベッドシーンに至っては、女のボタン外しと事後の男の喫煙姿しか映し出さない中抜きの御粗末さだった。いくら、“直接でないエロというものが原作の主題”だからというような言い訳ができるにしても、原作を違えてまでそういうことをしておきながら、その半端さというのは何か嫌味じゃないか?という不満が残ったが、そこのところは作り手側も不本意だったような気がする。
 一番の失笑ものだったのが、編集長が佳子の仕事場でゴルフクラブを振り回して荒らすシーンだ。ワープロに使っているノート型パソコンの周りに原稿らしき用紙が山のように積まれていたが、普通の流れなら、真っ先にそのパソコンを叩き壊すはずの場面ながら、パソコンに当たらないよう気遣っているのが透けて見える振り回し方で、原稿の山だけを崩していた。よほど予算が乏しかったのだろう。
 ところが、上映会場で回収したアンケートを主宰者から見せてもらって驚いた。喫茶店の3Fホールという映画会場としては親しみのない場所での上映会という少し風変わりなシチュエイションが作品とマッチしていたこともあろうが、ほとんどが好意的なコメントで、それも単に面白いというのではなく、真摯に作品主題に向かう視線の窺えるコメントがいくつもあった。むろん小沢真珠の下着に文句を付けているものなど一つもなくて、我ながら、自分のこの作品に対する視線のすれっからしぶりには苦笑を禁じ得ない思いを抱いた。
by ヤマ

'08. 6.14. 喫茶メフィストフェレス3Fホール



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