『アフタースクール』
監督 内田けんじ


 前作運命じゃない人が破格に面白く、また見事な作劇だったから、楽しみにしつつも、期待しないよう期待しないよう臨んだのだが、何となく予告編から受けていた前作の二番煎じ的な印象からは、思いのほか離れていて、とても面白く観ることができた。前作からすれば、緻密さよりも主題的なものが前面に出てきていたように思う。前作ほどの見事さとキレはないけれども、充分以上に楽しめた。

 最も裏表のありそうな稼業に就いていて曰くのありそうな北沢(佐々木蔵之介)が一番というか唯一裏のない人物だったところに皮肉な妙味のある作品で、作り手の仕込んだ仕掛けには、すっかりしてやられてしまったが、“あゆみ”の件については、充分に察しの付くことだったと少々悔しく思った。

 木村(堺雅人)や神野(大泉洋)の同級生に向ける態度と対照させていた警察の割り切りというか無情さが“個人と組織の体温の違い”として際立っていたのだが、それにしても、警察は全く以て“事件”にしか関心がなく、“人”にも“生活”にも実に無関心な態度を示していた。それに比べ、北沢の出現に乗り掛かり後に警察から大目玉を食らったという神野が、彼らの“損得勘定抜きにリスクを負って人助けをする奇特さ”を不思議がる北沢に対して、いかにも真っ当な教師らしく、奇特な少数者というのは、むしろ北沢のように、手前味噌に何もかも解っているつもりになって人生にシラけ、己の手で己が生をつまらなくしている人間のほうであることを説教する場面が効いていた。結局のところ、世間や人間の裏を見通していると思っている北沢が全ての裏を一番知らずにいたことが露わになるという、北沢にとってはまさにグーの音も出ない状況のなかで指摘することで、彼の身に沁ませるとともに、自身の職を通じて得た知見として、それもどこのクラスにも一人や二人はいるくらいにありがちなことであって、決して北沢が特殊な“宇宙人”ではないことをも伝える場面がなかなかよかった。

 『運命じゃない人』で私立探偵だった神田と同じモグリの探偵というか、便利屋として登場していた北沢という男は、思うに「神田に宮田という稀有な友人がいなかったら、神田はどんな人生を過ごしていたのか」という作り手の想像から生まれた回答キャラだったような気がする。世の中の裏も人間の嫌なところも人一倍観てきているとの自負が「所詮、世の中、人間そんなもんだ」という“達観”と言えば達観と言えるけれども些か“貧しい達観”というものを培っていたように思うのだ。一方、神野は『運命じゃない人』の宮田と神田を足して二で割ったようなキャラで、奇特な感じはあるけれど、決して宮田のような“宇宙人”ではない。むしろ木村のほうが宮田寄りのキャラ設定だったように思うが、彼にしても宮田ほどの不思議感はなく、もう少し現実感のある“いい人”だったような気がする。そのように人物造形されていたと思しき神野なれば、偽同級生であることを知りながら、北沢が島崎として同級生を名乗ってきた以上は、同級生として遇し、同級生のよしみで島崎[北沢]の持ち出す難儀に付き合ったなかで、彼の貧しい達観がその技能・力量・魅力に見合わない生き方を彼にさせているように受け止めていたのだろう。だから、思い掛けなくも、北沢が“損得勘定抜きにリスクを負って人助けをする奇特さ”を不思議がってきたときに、教師らしく彼からのシグナル発信だと受け取って、単なる回答に留まらない反応を見せ、熱く説教を始めたような気がするわけだ。

 そう思って振り返ると、北沢は、その自己防衛のための“貧しい達観”によって、ほんの少し気を許していたマコトに北海道逃避行計画を漏らしたことで手痛い目に遭いながら、怒りも失望も見せないような無感動の男だったのだから、神野にそのような問い掛けをするというのは確かに一つの“事件”であり、北沢個人においては、むしろ警察が追っていた事件以上の大事件だったとも言えるわけだ。『運命じゃない人』での宮田の善良さが真紀に与えたようなインパクトを北沢が神野たちから受け取って、シグナルを発信したのだと思う。教師としても生徒たちから慕われていることが寸描されていた神野は、その職業的キャリアによってそのことを感覚的に察知して、同級生思いの信条そのままに北沢に向かったのだろう。


 前作『運命じゃない人』で、僕が最も好きな場面は、友人宮田のことでどんなに苦労をしても、負った難儀を彼に伝えて解ってもらいたいなどとは露とも考えない私立探偵神田が、宮田に向かって「なんでそんなに簡単に人を信じちゃうの? キミも早く地球に住みなさ~い。」と軽口を叩きながら、稀有で特別な男を友人として自分が得ていることへの幸福感を漂わせていた場面だ。技巧や構成ばかりが注目された『運命じゃない人』の作品的主題はまさにこの場面にあるとまで思っているのだが、本作でその場面に相当するのがこの神野の説教場面なのだという気がする。僕の好みとしては前作の場面のほうが上回っているのだけれども、この場面で神野の言っていることは、常々自分の思っていることとも同じで、「人生の幸不幸や面白いつまらないは、環境や境遇処遇よりも本人の向かい方次第」という、大いに共感の持てることだった。同級生思いの神野にとって、北沢は同級生として遇した相手なのだから、シグナルをキャッチした以上、何とか伝えたい思いに駆られたのではなかろうか。

 前作『運命じゃない人』は基本的に神田と宮田のバディムービーだったわけだが、本作は、なにせ題名が『アフタースクール』であり、もう少し押し広げた“同級生讃歌”とも言うべき作品だったように思う。構成・スタイルは前作と趣を変えているけれども、源氏名が“あゆみ”というところも両作に共通していたし、主題的なところでは、前作を引き継いでいる作品だという気がする。だから、作り手のなかでは、偽りの同窓生でも何でもとりあえず同窓生と言うんだからと同窓生扱いしてくれ、説教までしてくれる神野のような存在と北沢が出会い、もしかすると友人にもなっていくことで、北沢の人生が変化し、『運命じゃない人』の僕にとっての名場面だった、神田が「軽口を叩きながら、稀有で特別な男を友人として自分が得ていることへの幸福感を漂わせていた風情」を北沢が手にするようなことがあってもいいじゃないかという思いがあったような気がしてならない。




推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dfn2005/Review/2008/2008_07_07.html
by ヤマ

'08. 6.11. TOHOシネマズ6



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