『アメリカン・ギャングスター』(American Gangster)
監督 リドリー・スコット


 実に面白く、観応えのある充実した映画だった。フランスを舞台にワインと恋を通じて生き方を見つめ直し活き活きした感情を取り戻す男を描いた前作『プロヴァンスの贈りもの』を先頃観たときにも感じたことだが、リドリー・スコットの作品には、いかにもアメリカ映画というべき醍醐味が詰まっていて、今や“ミスター・アメリカ映画”という貫禄を感じる。
 個人商店を駆逐する大型量販店やチェーン店の出現という時代の趨勢に裏社会の商売が今までのような形ではやれなくなってきたことを嘆くボスの言葉にヒントを得て、その亡き後、マフィアも為し得なかった産地直買付による良品ブランドの価格破壊商法でベトナム戦争時代のアメリカを席巻する麻薬シンジケートを作り上げた暗黒街の黒人実業家フランク・ルーカス(デンゼル・ワシントン)。一介の刑事から特別麻薬捜査班のチームリーダーを経て検事として自ら立件したうえで、自身が逮捕したフランクとの司法取引によって麻薬捜査に係る警察の腐敗構造を徹底糾弾したのちに、今度は弁護士に転じてフランクの減刑を果たしたリッチー・ロジャース(ラッセル・クロウ)。この二人の男の強烈な生き様を描いた作品だが、これが実話に基づく物語だというから驚きだ。
 二人の男に共通するのは、己が判断と選択を絶対として揺るぎのない“タフさ”だ。それは、ちょうどフランクが売り捌いたヘロイン同様の純度100%という、およそデリカシーなどとは無縁の、自身に“正直”極まりないキャラクターを貫いて生きるタフさだったのだが、それだけのタフネスを支え得る自我の強さというのは、いかなるものによって育まれるのだろうといささか圧倒された。いまどき流行の“KY”という言葉にはあまりにセンスが感じられなくて僕は嫌いなのだけれども、この“KYの権化”とも言うべき二人の生き方を観て、とても惹かれると同時に、危うさと始末の悪さをも覚えずにいられない気がした。ある意味、アメリカという国を体現しているようにも映るキャラクター造形に感銘を受けたわけだが、二人を演じていた俳優の持ち味がとてもよく活かされていたように思う。
 勢力下に置いている街から証言者は出ないとの自信の元に、白昼堂々と麻薬の商売敵を自らの手で射殺して、呼び寄せた兄弟従兄弟に力の程を見せつけるギャングスターに対して、禁欲的でモラリスティックな性格付けを施し、大金着服のチャンスに自分が動揺させられてしまうことが我慢ならなくて、思い掛けなく見つけた闇金を押収物として表の処理に付してしまうほどプライドが高くて負けず嫌いな刑事に対して、好色で放埒な不躾な性格付けを施してあるのが効いていたように思う。だから、裏社会で成功を収めても堅実な生活の羽目を外さず過度には目立たないようにしていたフランクが、一目惚れしたミス・プエルトリコの美女エヴァを娶り、全米にTV中継される「アリVSフレイザーの世紀の対決」に妻を連れての観戦に臨んだ際、マフィアのドン・カッターノ(アーマンド・アサンテ)よりも上席の高額チケットのリングサイド席を占めるばかりか、エヴァからプレゼントされた飛び切り目立つ超高級の毛皮のコートをまとって出向いたことで、NY市警特捜部の悪徳刑事トルーポ(ジョシュ・ブローリン)に目を付けられ、強欲なかすりを取られる羽目になってしまい、エヴァにのぼせて油断してエラーを犯した自分に腹を立てて、彼女からプレゼントされた超高級毛皮コートをその目の前で暖炉の火にくべてしまう場面が強く印象づけられるし、離婚した妻ローリーと親権争いを続けているなかでの不利な状況に業を煮やして自らが法曹資格を得て闘おうとしていたのではないかと思われるほどに達成欲の強い、狙った女は逃さないリッチーが、ローリーからの「100万ドルを着服せずに、ストリップのショーガールや麻薬ジャンキーの女との浮気を繰り返す男の正直さなんて私には必要ない。」との痛撃に親権争いを諦める場面が強く印象づけられるのだろう。
 そうした二人が、ある意味、似たもの同士としての暗黙の認め合いのなかで肝胆相照らすような協力態勢によって、警察の腐敗構造を暴いていく姿が妙に痛快でならなかった。リッチーがフランクを口説く際のキーワードが“時代の変革と進歩”であり、フランクの存在がそれを象徴しているからだという指摘と理解であったところが気が利いていて、作り手の見識が窺えたように思う。既得権益と権力の維持行使を図る強大な守旧勢力と闘うためのタッグを持ちかけたからこそ、フランクは取引に応じたのだろうし、そういう意味では、元々二人は同じ側で闘っていたとも言える形になっていたような気がする。
 それにしても、オープニングで矢継ぎ早に時と場所を越えた場面転換がされていたなかで、白髪交じりのフランクが誰かを始末している場面があったような気がするのだが、映画を観終えてみると、あれが何だったのか気になって仕方がない。まだ一切の登場人物の輪郭が判らない時点でのことだったから、何のことやらも、いつのことやらも不明のままに観ていたので、フランクの顔くらいしか印象に残っていない。リピーター誘導を仕掛けているのだろうなと小癪な気もした。エンドロールの最後に出てきた客席に向かっての銃撃カットも多分そういうことなのだろうが、そんな商売っ気も含め、実によく出来た映画だったように思う。
by ヤマ

'08. 3. 2. TOHOシネマズ5



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