『幽閉者 テロリスト』
監督 足立正生


 '74年に気鋭の映画監督からパレスチナの日本赤軍兵士に転じ、2000年に日本に強制送還された足立正生監督の35年ぶりの新作ということで、是非にと上映を頼んでいた映画だ。前々日に観たベルイマン監督のサラバンドが“事件”であったように、この作品も“事件”と呼ぶに相応しい出来事だと思う。僕が足立作品を今までに観る機会を得ずしてきていることからか、35年ぶりの新作ではあっても、その感慨は、ベルイマンほどには事件度が高くはなかったけれども、パレスチナに渡って以降、'80年代の日本も'90年代の日本も観ることなく過ごしたはずの監督の新作への興味は尽きない。だが、監督復帰の最初の映画は、やはり同時代を描くまでには至らず、かのテルアビブ空港事件の岡本公三をモデルにした作品だ。
 低予算ぶりが如実に表れていて、開始早々の空港での乱射事件の場面にしても、岡本公三をモデルにしながら舞台の空港を日本に移してどうするんだというような見え方をする有様だったが、映画作品としての骨格部分では、精神を苛まれることへの抵抗とも対抗とも屈服とも言えない反応としての姿の描出に異様なまでの迫力があって、なかなかに強烈だった。幽閉者Mを演じた田口トモロヲの演技が凄まじく、死よりも過酷な生き地獄とはまさしくこういうものを指すのだろうと思うとともに、その精神の痛んで行き様と同時にそれでも自己を支えるべく機能しようとする内省の声との葛藤に気押されるようなところがあった。作り手の足立正生自身に幽閉された体験があり、岡本公三と近しく接してもいたわけだから、幽閉者への暴虐に対する反応の描出に並々ならぬリアリティが複雑なニュアンスとともに宿っていて、ちょっと戦慄するようなところがあった。
 この作品に綴られた、幽閉者であるテロリストに加えられたテロルの過酷さは、暴力による威嚇の域を超え、人間破壊にほかならないものだ。次の襲撃計画を探ろうとしていた段階ではまだしも、厳しい責め苦のなかで、かかる責め苦を受ける自分は何者でどう向かえばいいのかとの自問自答を繰り返さずにはいられない状況に追い遣られていたMが、突如、自身を犬に置きかえた反応を見せたことを契機に保安隊員たちが面白がる思い付きのようにして、人間改造を標榜する実験を名目に、人間破壊に勤しむようになる。これは何もイスラエルに限った話でもないのだろうが、映画『ミュンヘン』を想起したり、アブグレイブ刑務所での米兵による暴虐を思うと、アメリカとイスラエルこそが2大テロ国家だと言うアラブの声も判らなくはない気がしてくる。
 行き場のないところに追い遣られたときの想念が、幼少期や思春期の自分に向かうのは、人の有り様として如何にも自然で普遍的なことのように思えるが、手榴弾の不発で自決に失敗して囚われたMが死よりもつらく思える責め苦に苛まれるなかで回帰する自己が、何一つうまくできない否定的自己であるのは、至極もっともなことながら、痛ましさの極みにあった。狂気との境界を行き来しながらでなければ果たし得ないような脱感作とも言うべきプロセスによる受容が超克と言えるとはとても思えないけれども、それしか生き延びる術がなかったということなのだろう。
 間違いなく意図的に織り込まれているはずのノイジーな音に逆撫でられつつ観ていたら、エンドクレジットに音楽:大友良英とあって、ちょうど三ヶ月前に地元のギャラリー・カフェ“odd eye”で観た青山真治監督の大長編ドキュメンタリー『AA 音楽批評家:間章に出ていた、飾らない柔らかい語り口とその音楽のギャップが印象深かったミュージシャンかと思い当たった。


by ヤマ

'07. 7.21. 喫茶メフィストフェレス3Fホール



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