『選挙』
監督 想田和弘


 今や閣僚経験もある高校の同窓生が、二十年近く前に初めて衆院選に出馬したとき、夜更けてばったり出会った道端で「まわりが一所懸命やってくれてるから、僕がこんなこと言っちゃいけないんだけど…」と断りながら、選挙運動の過酷さにいささか参っていると愚痴をこぼしていたことを思い出した。この映画が追っていた山内氏のような落下傘候補ではなくても、新人候補にとっての選挙運動の厳しさというのは半端なものではないらしい。しかし、その過酷さが、政治家になるうえでの意味のある厳しさならいいのだけど、日本の選挙の場合、“御恩”とかいって、むしろ反対のものを植え付けていくことを辟易とするほどに突きつけてくる作品だったように思う。

 映画が終わって、会場を出てくる人の顔がみんな暗く、疲れた面持ちだった。僕も観ながら、何とも気分が悪くなっていた。名を売り顔を売ることに終始している連呼と握手の選挙運動にはうんざりしているから、実際の選挙運動時には3分と続けて付き合うことをしていないのに、120分ものあいだ見せられるのだから、気分が悪くなるのも道理と言えば、道理だ。

 映画の始めのほうで、既に喉の枯れた声ながらも選挙戦としてはまだほんの序盤に過ぎない段階と思しきときに「こういう選挙って日本だけのものらしいよ。」と何処か他人事めいた口調で山内候補が妻に語っていたが、選挙こそが“日本の政治文化の余りにもの質の低さ”というものを端的に示しているのは間違いない。「小泉改革を進めたい、改革が必要なんです。」と彼は叫んでいたが、政治にまつわるもので最も改革が必要なのは、何よりもこの選挙スタイルそのものだという気がする。

 この作品は、一切のナレーションも説明文字も入れない“観察映画”と称するドキュメンタリー手法によって、小泉フィーバーのもと、落下傘候補の新人にどぶ板選挙を強いていた2005年の川崎市議補欠選を追っていたわけだが、確かに観察重視でインタビューすらほどんどしていないものの、編集という映画に付き物の作業のなかで、明確に作り手の意図と主張を込めているように感じた。すなわち日本では、政治家になるために通過する選挙において、本来政治家に対して最も問われるべき“語る言葉についての資質”が全く問われていないどころか、封印されているということをフィルムに焼き付けていたような気がする。政治家に最も必要なのは、その政治理念と政治行動であり、先ずはそれを伝えるうえでの演説と言葉が何よりも重要だというのは、理念的には異論のないところだろうが、選挙という入り口では、選対という半プロ集団によって選挙の自由を奪われ、愚民選挙に耐える試練を与えられていたように思う。まるで一頃の企業の新人研修でのしごきのような形で経験させる洗脳プログラムに近いようなものに感じられた。実際は、いくら何でも名前とお願いの連呼だけではない言葉がもう少しは公の場で発せられていたろうとも思うのだが、綺麗さっぱり尽く編集でカットされていた。無論そうすることのほうが、誤解の少ない形で現実を伝えられると作り手が判断していればこその編集であるわけだ。

 それにしても、公衆の前では意味のある言葉が一切発せられていない選挙運動を延々と観させられていると、本当に疲れてくるし、腹立たしく情けなくもなってくる。それこそ、おそらくは他ならぬ山内候補が体感していたことなのだろう。ケンタッキー・フライド・チキンのカーネルおじさんの人形の差しだしている手に「よろしくお願いします」と言って握手をするお茶目を自嘲気味にしていたのも、そんなふうにはぐらかすことでからくも心のバランスを保とうとしているように僕の目には映った。

 気象大学校や信州大を中退して東大に入り、卒業後は切手コイン商を営んでいたという異色の経歴を持つ山内候補の、かつての気ままな自由人ぶりを知る東大時代の学友たちがホテルを訪ねて来てくれたときに「もうまるっきり体育会系なんだよね、ほら、僕なんかそういう挨拶の仕方とか知らないから、叱られてばっかりでさ。」などと零していたが、確かにバカでは出来ないけれども、バカになれなければもっと出来ない選挙運動だと思った。海外の映画祭などで得たコメントとしてチラシに紹介されてもいた“驚異的な打たれ強さ”というのは、僕もつくづく感じていたことだ。もちろん他陣営からの攻撃に対する打たれ強さなどではない。選挙運動に携わることで心の内側が蝕まれていくような精神的ストレスに対してのことだ。だが、さしもの山内候補も共働きのことで選対ボランティアの人たちとの間で意見がぶつかったことについて奥さんが言上げてきていたときには、疲れの濃い様子で、勘弁してほしいとの想いを如実に窺わせていたように思う。

 かような選挙運動に携わる過程で、候補者が失うはずの政治理念や政治行動と、植え付けられてしまう“しがらみ”について思うとき、旧体制システムとしてがっちり構築されているが故に、日本の貧困なる政治の根は深いと嘆息せずにいられない。最も打破されるべきアンシャン・レジームこそは、どぶ板選挙を展開するための後援会組織の持っている体質なのだと昔から思っていた。しかし、その一方でそういう後援会組織が従前のような力を発揮できない都市型選挙とか劇場型選挙というものが、TVメディアやネットを介して顕在化して来始めると、ある意味、愚民選挙はもっとひどい形になってきているような気がしなくもない。それこそ、勝ちさえすれば何でもありと居直る“勝てば官軍”方式の政治が効率的に広範に展開され始め、恐ろしく低次元とは言え、まだしも顔が見え、義理や恩といった“しがらみ”という生臭かろうとも血の通いと言えば血の通いでもある部分が失われていき、本当に無節操で殺伐とした非情なものになってきたように思う。少数意見が圧殺され、二者択一的思考のみ促してバランス感覚を狂わせる小選挙区制を推し進めたのは、確か自民党時代の小沢氏だったように思うが、民主党が得票数で上回りながらも議席数では追いつかない選挙結果になっている現行制度に移行させたことをどう見ているのだろう。



参照テクスト:鈴木哲夫 著 『政党が操る選挙報道』読書感想
by ヤマ

'07. 7. 4. 自由民権記念館・民権ホール



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