『檸檬のころ』
監督 岩田ユキ


 最初に聞こえていたのは幸田來未の曲だったようだし、汽車は国鉄ではなくJRで、駅のポスターには何やらケータイについてのイラストが入っていたから、流行の昭和レトロといった設定ではないのだろうが、登場人物の誰一人としてケータイを使わないし、雰囲気的にはちょうど僕が十代の頃のような時代感覚が漂っていたように思う。今でも田舎はこんな感じだと目されているのなら噴飯ものだけれども、もし、こういう田舎の高校なら今でもとの願望が託されているのだとしたら、ちょっと現実離れしているようでも、なんだか許容したくなる。そんなキリリと酸っぱい“檸檬のころ”が描き出されていて、ちょっと切なくなるような感傷をもたらしてくれた。
 何よりも、自分が大事にしているものへの“若々しい畏れの感覚”が、当の対象のみならず、それを大事に思っている自分自身の尊厳というものに対して、無意識のうちにきちんと守ろうとする態度としての節度というものをもたらしている感じが主要人物五人の総てに瑞々しく宿っていて、幻のように美しく感じられたところが出色の作品だったように思う。大切にしているものを壊したくないという受身の態度ではなく、積極的に守ろうとしている想いとして表れていたように思うのだが、それを自覚的な意思としての態度の立派さで描くのではなく、“若々しい畏れの感覚”の自然な息づきとして描出していたのは、なかなかのものだ。この畏れと節度に対して“臆病”などとは決して言いたくないとの思いが湧いた。
 自身のうちで絶対的な位置を占めているロック・ミュージックについての掛け替えのない共有を果たせる者同士としての思い掛けない出会いに、白田恵(谷村美月)が密かに想いを寄せるとともに、当然のごとくその想いをも同様に共有できていると思っていた辻本クン(林直次郎)が、自分に対しては恋人目線ではなく“ともだち”意識でしかなかったことに抑えきれない憤慨と落胆を露呈させつつも、相手にぶつけることなく堪えようとする姿は、音楽ライターを志していることを自他ともに押し隠すことなく明言しているなかで、地味でおとなしい親友に音楽雑誌への投稿掲載という形で出し抜かれても、妬みや恨みではなく「これ、凄いよ」と呟きながら読んでしまう素直さとともに、爽やかな可愛らしさを印象づけてくれていた。こらえるから自分を守れるのであって、こらえない野放図に感情の赴くままを委ねると、自分のなかの何かが壊れると感じるような畏れの感覚をきちんと宿していた気がする。
 吹奏楽部で指揮者を務める成績優秀のスクール・マドンナである秋元加代子(榮倉奈々)にしても、中学時分からの想いを引き摺りつつ、かつてのようには素直に振舞えないことで相互に想いのすれ違う西(石田法嗣)との関係に、心のうちで彼のために大事にしていた応援歌“ルパン三世”をそれと知りつつ素っ気なく扱うような彼の態度や、西とは違って率直に自分への想いを表明してくることへの好感から、同じ野球部のエース佐々木クン(柄本佑)に惹かれていくのだが、遠くから自分を見つめ続ける西の視線のなかで新たな恋に向かうことへの懼れを抱いていたような気がする。そして、加代子もまた恵と同じような素直さでもって恵がノートに記した言葉のフレーズに目を留め心に刻み、文化祭ステージでの辻本クンの歌のなかにそれを聴き取って感激した想いを真摯に恵に伝えることで、期せずして彼女に救いと希望を与えるわけだが、そんな加代子もまた、爽やかな可愛らしさがとても印象深かったように思う。
 表向き平穏を保ちつつも最も複雑で嵐のような胸の内に苛まれていたのは、おそらくは西なのだが、中学時分からの加代子との関係を更に進めることと終わりにすることの、どちらへ向かっても大事にしているものを壊していくようで、成す術がなくなっているように見えた。その行き場のなさの現われ方にまた畏れと節度が窺えて、少々苦しい“檸檬のころ”が感じられたように思う。
 すっかりやられたのは、加代子が東京に進学し、自分は東京に出られない受験結果が明らかになった後での佐々木の「加代ちゃん、髪に触らせてくれないかな、…これが精一杯だ。」だった。教室のなかで女生徒ばかりで昼食を摂っている輪のなかに「秋元さ〜ん」と割り込んで隣に腰掛けたり、店番が奥に引っ込んでいる金子商店で「おじさ〜ん、このコーラ、万引きしていい? あ、ダメ? じゃあ、このラムネ、万引きしていい?」と奥に向かって大声で断って失敬してくるような自由闊達さに恵まれていると見えていた佐々木においても確かに息づいている若々しい畏れと節度が描き出す“檸檬のころ”が、何とも眩しかった。
 榮倉奈々と谷村美月が、もうなんとも可愛くて健気で、男の子三人も実に真っ直ぐで可愛らしい。でもそれは、彼らと同世代の者だと絶対に向けられないはずの視線が自ずと引き起こされる歳に僕があることで味わっている心地よさであって、当の十代が観ると鼻先で笑ってしまいかねない美化された若者像にも思えたりする。けれども、原作の豊島ミホの24歳という若さからすれば、もしかしたら、ファンタジーとしての切実さがあるのかもしれないとも思った。でも、もしそうだとしたら、ちょっと不気味な気がしなくもない。これを美化したノスタルジーとして楽しむのではなく、ファンタジーとしてであっても切実に求めずにはいられないのだとしたら、よほど現実のほうで枯渇しているのではないかという気がしたからだ。また、そうではなく、若くても中年後期の僕と同じようにノスタルジーとして味わっているのだとしたら、わずか十年足らずの時の経過をそのように捉えてしまうスピードの時間感覚に、少々呆れつつ何処か恐ろしさを覚えずにはいられない。
by ヤマ

'07. 7. 3. TOHOシネマズ8



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