『トランスアメリカ』(Transamerica)
監督 ダンカン・タッカー


 性転換手術を控えたブリー(フェリシティ・ハフマン)が息子トビー(ケヴィン・セガーズ)に本当はスタンリーという男性名の実の父親であることを明かせぬまま、ニューヨークからロサンゼルスまで旅するロードムービーなのだが、その道中で出会ったネイティヴ・アメリカンの血を引くカルヴィン(グレアム・グリーン)が、夜更けのポーチで、心寄せるブリーのためにギターで弾き語ったBeautiful Dreamerが、妙に心に沁みて忘れ難かった。あまりに印象深く演出されていたので、歌詞が気になって調べてみたら、“Sounds of the rude world heard in the day, Lull'd by the moonlight have all pass'd away!”という一節があって、まさしく葛藤や喧噪を追い遣って穏やかな夢に至る姿を暗示していた。

 性同一性障害ゆえに裕福な家を出、家族との縁も切って、しがないレストランのウェイトレスや通信販売の勧誘コールをしながら金を貯め、手術で完璧に女性になることを夢見るブリーが、初めて息子と出会い、生活は荒みながらも素直な魂の透明感を保ちつつ未だ見ぬ父親を求めている彼の寂しげな面影と寄り添うなかで、血縁者という家族への想いを蘇らせていっている姿に只ならぬ説得力があったものだから、もしかしたら、この出会いによってブリーが性転換手術を断念して父親として生き直す選択をする結末が待っているのかもしれないと思うのと同時に、そういう物語にしてしまうと、敢えて性同一性障害者を主人公にして、その夢の実現を否定する物語になるわけだから、それというのは性同一性障害者に対する視線としていかがなものかとの懸念を抱いたのだった。ブリーにしてもトビーにしても、また、道中出会う善良な人々や止むなくブリーが久しぶりに訪ね、頼らざるを得なくなる両親や妹にしても、外見や生活の規格外の有様とは裏腹に、心根の優しさ美しさが空々しくなく巧みに造形されていただけに、物語の顛末がそのようなものになると、余計に嫌な感じがしてくるように思ったのだった。

 しかし、ブリーは初志を全うする。トビーに対して父親として臨む道を断ったことへの喪失感が、取り去った股間の邪魔物とは違って余りにも重いことに号泣しながら、これが本来の自分のあるべき肉体の姿への目覚めであるとの夢を実現する。この選択と引き受けの姿の重みに説得力が宿っているだけに、ブリーが心底、女性になりたかったのと同時に、心底、トビーの父親にもなりたかったことが伝わって来たように思う。相容れないものの両方のいいとこ取りというのは出来ないとしたものだ。そして、どちらもが切実であればこそ、その選択と引き受けには重みと覚悟が宿るのだろう。

 幼時からの性的虐待や男娼売春、麻薬所持、逮捕拘留やポルノ映画男優稼業、およそ恵まれているとは言い難い境遇だけれども、身はやつしても素直な心根に曲がりをきたさないトビーの姿が、ネイティヴ・アメリカンの血を引く殺人前科を負いながら、ブリーとトビーに優しく紳士的に接するカルヴィンと同様に、ハンディキャップを負っていることが心を挫かない魂の力の強さを偲ばせる人物像だったからこそ、性同一性にまつわる障害というかハンディキャップを負っているブリーの心を揺さぶったことが自ずと伝わってくるような描出と役者の演技力が見事だった。そこに通底しているのは、メンタルな意味での自立の力とそれに支えられた“人との距離感の保ち方における節度の確かさ”だったように思う。トビーにとっての未だ見ぬ父親だったり、カルヴィンにおける伴侶だったり、ブリーにおける本来あるべき自分の肉体だったりするところの“求める夢”というものに対してのスタンスにも、そのことが窺えたように思う。だからこそ、彼らは“Beautiful Dreamer”なのだ。そして、“美しき夢見る人”と和訳できるこの言葉の「美しき」は、まさしく夢ではなく「人」に掛かっている。そういう映画だったように思う。

 ラストで、自分の父親が父親であることを捨て性転換したことを許せないとしながらも訪ね来て、テーブルに足を投げ出し毒づくトビーに対し、父親を捨てたことの負い目を滲ませながらも決然と息子の不作法に叱責を加えるブリーの、敢然と親として立ち振る舞う姿が実に美しく、また、親が親として向かって来てくれる姿に素直に感応し、テーブルから足を下ろすトビーの姿が美しかった。何でもない場面のようでいて、なかなかこうは描けないものだ。途中で抱いた懸念が払拭されるどころか、きっちりと一歩先を鮮やかに描いて残していってくれたように感じた。性転換手術を断念して父親として生き直す選択をするのではなく、父親を捨てても親であることは捨てずに全うしようとするブリーの姿を見せてくれた素敵なエンディングだった。二人が出会う前に、それぞれ抱いていたはずの虚ろな寂しさというものが、何だかとても確かな形で埋め合わされていたような気がする。




参照テクスト:『トランスアメリカ』をめぐる往復書簡編集採録


推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20060914
推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0708_3.html
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dfn2005/Review/2006/kn2006_08.htm#01
by ヤマ

'07. 8.28. 美術館ホール



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