『手紙』
監督 生野慈朗


 手書きの手紙、ワープロ打ちの手紙、葉書、映画の題名が示すように種々の手紙が映し出されるが、僕にとって最も感銘深かったのは、全く文面が映し出されなかった白石由美子(沢尻エリカ)の手紙だった。

 二十年以上も前のことになるけれど、僕は教護院に勤めていたことがある。指導上の必要性から、そこに入所していた少年少女たちの調書を読むと、彼らが非行に至った経緯には、本人よりも親や教護院入所以前にいた施設、学校などの対応に問題があって、彼らがそこに責任や因果を求めるのももっともだと思われる場合が多々あった。しかし、どこが悪い、誰が悪いと言ってみたところで、そして、それがもっともな話だったところで、その誰もどこも入所児のしでかした事のツケなど払ってくれはしないのだから、結局、自分自身で引き受ける腹を括るところからしか始まらない。そのことを何とか伝えようと幾人かの入所児と話し込んだものだった。

 中学生にそれを求めるのは酷などと言ってみたところで、彼らは逃れようがないのだから、少しでも早く覚悟を決めるしか先の道は開けてこないわけだ。しかし、この“引き受け”からしか始まらないことを“希望”なり“可能性”とともに伝えることは至難の業で、当時二十代半ばの僕に果たせたとは到底思えないが、この話をしていたとき、それまでに見たことのない類の真摯さが彼らの眼差しに宿っているのを感じることで、話を継いでいくことが何とかできていたような覚えがある。

 だから、平野会長(杉浦直樹)がこの至難の業を果たすために武島直貴(山田孝之)の元にわざわざ現れた場面に打たれるとともに、会長にその脚を運ばせた由美子の“手紙”の力に心打たれた。会長が直貴に語り聞かせた話の眼目がまさしくかつての僕が入所児たちに伝えようと試みたことと符合していたからだ。直貴には、平野会長を動かすだけの手紙を彼のために書ける由美子がいた分、“希望”と“可能性”を添えて引導を渡すことがしやすかったようには思うけれども、他方、教護院の入所児と違って直貴には自身が責を負うべきところがいささかもないだけに“引き受け”の覚悟がより困難だったはずだ。だが、その困難を飲み込むしかないことを思い知るだけの酷な状況に直貴は晒され続けてきたわけで、この映画を観ると、そういう酷な状況に、より理不尽な形で晒されるのが、当の犯罪者ではなく、その家族であることがよく判る。

 むしろ当の犯罪者は刑務所に隔離されていて、ある意味、守られているわけだから、兄の剛志(玉山鉄二)が六年の歳月を経て弟直貴からの絶縁の手紙でようやく思い知ったように、刑務所でのお務めを果たしているだけでは何の贖罪を積んでいることにもならないわけだ。それというのも、そもそも現在の刑務所というところが、刑務所の中('03)の映画日誌にも綴ったように「本質的に刑罰を執行していない」からだ。刑罰概念に言う目的刑としての教育刑を結果的に剛志に加え得たのは、出す出さないも含めて専ら“手紙”を通じて兄の心に働きかけていた直貴であった。それがあって初めて殺された被害者の息子である緒方忠夫(吹越満)も「もう終わりにしましょう」と困難な覚悟を飲み込むに至ることができるようになるわけで、ここでもまた“酷な状況に、より理不尽な形で晒され”ていたのは、死亡している当の被害者ではなく、その家族であることが明示されていたように思う。

 重大犯罪というのは、かほどに重く罪深いことであって、それは過ちを犯してしまった犯人の人格のほどによらず、取り返しがつかない。決して悪人とは思えない剛志が模範的に刑に服していても、何らの贖罪が果たせないことなのだ。TVドラマや映画で描かれる犯罪というのは、ともすれば、捕まって終わりとなったり、場合によっては、レジスタンスや反骨のメタファーとしてヒロイックに描かれたりしがちだが、当然ながら、現実はそんなものではない。また、犯罪者やその家族に対する視線の冷酷さということにおいては、犯罪者どころか教護院に送致されていた子ども達でさえ、犯罪者ですらないのに差別を受けずに社会で過ごせることなどありえないのが世間というものの実情だ。それだけ犯罪というのは大変なことなのだが、人々の想像力の貧困化によって、かつてならある程度当然にして前提にできていたはずの罪深さや重さが、ほとんど通じない連中が数多くなってきているような気がする。

 僕がもはや社会の崩壊状態の象徴のように感じている犯罪事象は、“振り込め詐欺の広がり”なのだが、あの見境のなさと徹底した弱者狙いにおけるタガの外れたようなモラルハザードぶりが莫大な件数で発生しているところには、やはり人心の崩壊が窺えるように思う。そして、騙す側の「手の込んだ周到さを果たすために巡らされている想像力」の呆れるほどの過剰さと相反するような「被害者たちや結果に対して巡らされる想像力」の信じがたいほどの貧困さという落差の大きさが、僕に崩壊のイメージをより強く与えるとともに、この犯罪に手を出す連中の数の多さと動機のあまりにもの軽さに、日本社会の崩壊を感じている。だから、この作品のように犯罪というものの重さや罪深さを切々と訴える作品が現れてきたのだろうとも思う。言わば、時代の要請でもあるわけだ。弟直貴の“お笑い”の舞台を観ながら、剛志が手を合わせ、鼻水を垂らして涙する悔恨をもたらされなければならないのが重大犯罪であり、だからこそ、決して人が手を染めてはならないことなのだ。

 直貴の被った苦労に対して具体的な誰かや何処かに責を負わせて観る側が気を晴らすことのしにくい登場人物の造形というものは、そういったことを訴えるうえで作り手がフィクションとして意図的に工夫していた部分だと思われるが、そこに確かな見識をも感じた。直貴が直接的に出会う人々には下品な悪人と言える人物は、誰一人として登場しない。直貴の逆玉の輿ともなりかけた社長令嬢の朝美(吹石一恵)だってつまらない女性じゃなかったし、彼女の父親(風間杜夫)にしても、婚約者にしても、それぞれ限界は負いながらも決して下劣な人物ではなかった。それで言えば、この映画を観た日に発売となったゲーム機プレステ3欲しさに列を成すなかで罵声をあげたり身勝手な振る舞いをする輩などよりは遙かに、全ての登場人物に節度も分別も窺えたように思う。それでも、直貴はツライ思いを重ねざるを得ないのだ。言うなれば、現実は、もっとひどいということだ。だからこそ、過ちと言えど、剛志の犯した罪の重さや深さが沁みてくるわけで、そのためにも直貴に関わる誰が悪い何処が悪いといった方向に観る側を導かないよう配慮していたのだろう。しかし、ひとつ大きな疑問があって、剛志のような事情を負ったなかで強盗殺人を起こした場合の量刑が無期懲役というのが本当に現状なのだろうか。怨恨要素のない金銭目的だから重くなりがちだとは思うけれど、無期懲役までいくのかしらと素人考えながらも疑わしく思った。

 それにしても、直貴の被った厄災は大変なもので、それが兄の自分への想いが高じた挙げ句のとんでもない過ちによるものだとしても、到底承服しがたいものだったわけだが、ひとつだけいいことがあって、あのように徹底的なハンディを負っていると、結果的に真玉の本物に出会えるというか、それ以外のものが敢えて選別を加えずとも自ずと淘汰されていくということがある。結局最後まで直貴の元に残っていたのが由美子と祐輔(尾上寛之)だったのはその証拠とも言えるわけだし、彼らの間で結ばれていたほどに濃密で確かな絆というのは、そうそう得られるものではないと思う。「あんたがお笑いの夢捨てんと工場辞めたから、うちも美容師の夢のために学校行くことにしてん。」などという涙ぐましいまでのさりげなさで直貴の存在価値に対する肯定感を促す言葉を彼に与える由美子を演じていた沢尻エリカが、とてもよかった。今が盛りの活躍ぶりだが、トレンディ女優に留まらない確かな存在感と魅力が、出演作の作品的な充実ぶりにも窺えるような気がする。



参照テクスト:「チネチッタ高知」 鬼の対談>手紙
参照テクスト:東野圭吾 著 『手紙』(毎日新聞社)読書感想

推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20061109
by ヤマ

'06.11.12. TOHOシネマズ8



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