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『刑務所の中』 | |||||
監督 崔 洋一 | |||||
最近観た『13階段』では、欧米の刑罰思想が応報刑で、日本が目的刑に立っているというようなことを語っていた。応報刑論・目的刑論というのは学生時分に法学概論で学んだ覚えがある。だが、欧米と日本の違いというよりは、復讐的私刑から法定公刑に制度化された刑罰においてもなお、その本質は、犯した罪に対する等価報復にあり、その執行が社会正義であると観る素朴な人間感情に立脚する応報刑論と、私刑から公刑へと制度化するなかで、単なる応報以上の社会的目的を持った部分に本質が移行したと観る目的刑論という、原初と進展の違いであったような気がする。そして、目的刑論のなかでも、単なる応報的正義感を満足させても犯罪の防止には繋がらないとする立場からは、犯罪者の更生こそが刑罰の目的であるべきだとする教育刑論へ進展する考え方が生まれ、刑罰の応報的執行は単に素朴な正義感を満足させるのではなく、一般人に対して犯罪の抑止力があるのだとする立場からは、犯罪者の更生による再犯防止という特別予防ではなく、一般予防をもって目的刑を主張する考え方があると学んだように思う。これらにより、犯罪事実に対する客観的等価報復による刑罰の執行と、犯罪事実よりも犯罪者の資質情状への主観的評価による、特別であれ一般であれ予防効果を重視する刑罰の執行という、刑罰の決め方の違いが生じてくるとも学んだ。 しかし、これらを対立概念として捉えるのはいいけれども、対立論と捉えて当否正誤を争うようになると、実際問題から乖離して議論のための議論となって空転し始めるという気がする。ただ、二者択一ではないことを前提にしても、目的刑論において意図している予防的機能が一般予防と特別予防であることには留意すべきだと思われる。 だが、獄中実録コミックとして話題になった、自身の刑務所体験を描いた原作漫画を映画化して、一般人にとっては非日常の極みでもある、受刑者生活の日常のディーテイルから窺えるヘンな世界を描いた作品をそういう観点から垣間見ると、前述の論考が一切むなしくなるような刑罰の機能不全が浮彫りになってくる。応報刑としての苦痛刑は、教育刑論的観点から排除され、今や安全安心快適で、自由と人間性のみが過度に奪われた刑罰であって、応報的苦痛の等価報復とはなっていない。一方、目的刑としての教育刑とするならば、その教育とは、悪行への自覚と改悛を促し、反省と更生を期する人間教育でなければならないわけだが、自由と人間性の剥奪だけでは、そこに何ら教育的効果は期待できない。刑罰の執行機関としての刑務所が果している実態的機能は、収容隔離と受刑者管理のみであることがよく判る。だが、これでは、応報刑でも教育刑でもない。すなわち理論的には、刑罰執行機関が刑罰を執行していない実態を細部において論証しているような作品だとも言えるわけだ。 映画としては、コミカルな笑いの線では少々ギャグが弱く、脱力系の笑いの線からはギャグ臭が強すぎるという中途半端さが、作品のキレを悪くしているような気がして、もっと面白くなっていいはずなのにという不満が残る。でも、教育的目的とは乖離した愚にもつかない管理主義の珍妙さはよく描かれている。 中でも印象深いのは、刑務官の視野にあるときは、どんな些細なことでも一々挙手による申し出を行い、許可を得るのを待ってからでないと何も行えないことと数字ばかりが連呼される“刑務所の中”の有様だ。名前でなく受刑者番号がアイデンティティにされ、点検やら移動の際には必ず数字で員数確認を何度も繰り返し、号令によって数字を唱えて体操し、歩かなければならない。犯罪の種類の多様さに比して受刑者に課せられた刑罰は、期間の長短以外は全くと言っていいほど違いがない。そういうなかで、強いて教育効果が期待できるとすれば、管理に対する従順さという面での調教効果のみだと思われる。しかし、それは出所してからの特別予防に繋がる教育効果ではなく、出所までの期間においてのみ有効な教育効果にすぎないことが明白である。概念的には種々の刑罰がありながらも、刑務所では、本質的にはいかなる刑罰も執行されていないのだという認識を与えられたことが最も印象深かった。刑罰の効果があがっていないのではない。本質的に刑罰を執行していないのだ、刑務所では。行政機関のシンボリックな姿がそこに確かに宿っていた。 推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2003kecinemaindex.html#anchor000900 | |||||
by ヤマ '03. 3.23. あたご劇場 | |||||
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