『ワールド・トレード・センター』(World Trade Center)
監督 オリバー・ストーン


 2001年9月11日のニューヨーク世界貿易センターを描く映画をオリバー・ストーン監督が撮ったとなれば、政治的なメッセージ性の強い作品になっているのだろうと思っていたら、イスラム原理主義のイの字も、テロのテの字も、ブッシュのブの字さえもが出てこない映画だった。これなら何も9.11である必要はないのではないかといった文句が観客から出てきそうにも思えるが、まさしくそこのところが作り手の見識であり意思だと感じられるような作品だった。

 映画は、徹頭徹尾、国ではなく人命を救おう守ろうとする職務に就き、ビル崩落に巻き込まれ瓦礫の下で自らの命を危うくしていた港湾警察官とその家族の姿を描き出すわけだが、とても印象深かったのが、ここに描かれた被災者本人にしても安否を懸念する家族にしても、猛烈な不安のなかでも一縷の望みを捨てずに葛藤の持続に耐えている人間の逞しさといったものに凝縮されていたことだった。あの日あのときのTVが繰り返し繰り返し大型旅客機がツインタワーに突っ込む映像を流しつつ、しきりに「誰が何のためにやったことなのか、誰がかような事態を招き、引き起こしたのか。」ということばかりを論じ、人々の関心もそこに吸い込まれ集約されていったけれども、現場で起こっていたことは、当然ながら、目前の被災した人命の生存に対する不安と脅えであり、それこそが現場の真実であって、実際に飛行機がビルに突入しているリアルな映像で現場を映し出しつつも、同一映像の繰り返しという演出を技術的に加え、直ちに“論じる”ことに主題を移行させる“報道”というものは、やはり現場の真実を伝えることなく、むしろ遠ざかろうとする意思を孕んでいるような気がする。

 僕自身を含め、観る側もそういった感覚にすっかり毒されているからこそ、この映画を観ると、なぜこれが9.11である必要があったのかなどという本末転倒した想いを誘発されるのだが、まさしく当日の被災者自身がそうであったように、端から“9.11である必要”などないのが当然で、あくまで“起こっていたことは何か”が肝要なのだ。だとすれば、引用符で括られた“9.11”というのは、既にそれ自体が明白に“現場の真実から遠ざかった意味づけ”によって造り上げられたものに他ならない。この映画のなかで人命救助に勤しんでいた誰もが“愛国心”や“正義”などという言葉をついぞ口にはしなかった。救助チームへの参加を名乗り出て被災したウィル・ヒメノ(マイケル・ペーニャ)や彼を率いて共に被災し救助されたジョン・マクローリン(ニコラス・ケイジ)のみならず、彼らの救出の端緒となった第一発見者の元海兵隊員や各地から使命感と義侠心によって駆けつけた救助活動のプロたちにしてもそうだ。正邪の黒白などに囚われない“義侠心”は、尊大なる“正義”などと違って気高く美しい。そして、救出された二人の生命力を支えたのが、一に懸かって家族への想いであって他の何ものでもないところが、やはり人の真実なのだと思う。

 また、非常に興味深かったのは、この作品の骨格についての着想が二十年前のプラトーンと実に似通っているということだった。当時の日誌に「この作品は、彼らをそのように描いた故に、ベトナム戦争を描きながら、べトナムの側の視点がないという批判を受けるかもしれない。しかし、そもそもベトナム戦争そのものを描くというよりもベトナム戦争下のアメリカの一小隊を描くのが作り手の意図でもあり、そういった意味では、史実としてのベトナム戦争というインターナショナルな視点は最初から考えていない、極めてドメスティックな立場の作品なのである。そして、アメリカにとってのベトナム戦争という点で、今迄に撮られた映画のなかでは、変に観念的でもなく、クールに批判するのでもなく、兵士たちの生々しい苦悩と悲劇が最もよく描けている。実際、アメリカ人がベトナムの側に立ってベトナム戦争を描こうとしても無理があり、表面的なことに終ってしまいがちで、この作品のようなインパクトは持ち得ないであろう。」と綴ったことがそのまま当てはまるような気がする。そして、『プラトーン』において「そこに見えてくるのは、アメリカに限らぬ、エスタブリッシュメントの持つ権力の傲慢さと醜怪さなのである。」と綴った部分に相当するような形でこの作品で見えてくるのが、「“報道”というものは、やはり現場の真実を伝えることなく、むしろ遠ざかろうとする意思を孕んでいる」と前述したことになるような気がする。そういう意味では、やはり“政治的なメッセージ性の強い作品”だったとも言える気がしないでもない。
by ヤマ

'06.11.19. TOHOシネマズ5



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