『男たちの大和/YAMATO』をめぐる往復書簡編集採録
チネチッタ高知」:お茶屋さん
ヤマ(管理人)


  2006年2月27日 0:59:51

ヤマ(管理人)
 お茶屋さん、こんばんは。
 前に聞かれちょった『男たちの大和/YAMATO & 大日本帝国('82)』の日誌、もうアップしちゅうがやけんど、読んでくれた?

(お茶屋さん)
 読んだよー。

ヤマ(管理人)
 ありがとー。

(お茶屋さん)
 坂東さんの引用してくれてよかったわ。高新やめたし。(朝日も読んでない(^_^;。もう、新聞取るの止めようかな。)

ヤマ(管理人)
 新聞やめるのは、ちょっともったいないように思うけど、読まんのやったら、しやないわねぇ(笑)。それはそうと、お茶屋さんの「かるかん」は、ケイケイさんが掲示板で書いちょったように、「兵隊さんよ、ありがとう」と「兵隊さんよ、ごめんなさい」の間の揺れ動きという観方が面白かったよ。
 「10年前なら気楽に楽しめたでしょうにねぇ。>じぶん」と書いちゅうように、「最終的には「兵隊さんよ、ありがとう」の印象の方が強く残った」ことが気になったがは、映画の作りそのものよりも今の状況に対する思いが作用しちょったがやないろうかねぇ?

(お茶屋さん)
 ご明察です。部分的に(笑)。
 愛国称揚とは言い切れないまでも、どちらにも受け止められる映画だと思いましたよ。

ヤマ(管理人)
 むろん両方の要素があるよね。そのなかで、どっちのほうが強く残るかって話で、それは個々人で違うやろね。

(お茶屋さん)
 それにプラスして、今の日本の市民の状況では、「ありがとう」と受け止める人が多いのではと心配ですね。

ヤマ(管理人)
 僕自身の感覚としては、「ありがとう・ごめんなさい」よりも「かわいそう」って感じ。他人事っぽくて顰蹙かもしれんが(苦笑)。

(お茶屋さん)
 顰蹙ってことはないでしょう。実際、かわいそうだし。無駄死にだし。無駄死にってことをちゃんと描いてたとこはよかったね。
 でも、ヤマちゃんが引用していた「日本が目覚めるためには敗れなければならず、我々がその目覚めの礎になれるのであれば本望ではないか」という言葉にしても、礎となった兵士の死を無駄にしてはいけないともとれますが、このセリフの前の状況は、「沖縄で戦闘をするのに空軍の援護がない、我々は無駄死にか」「いや、そんなことがあるものか」という兵隊たちの言い争いの場面でしたから、そこへ一茂士官のこの言葉がくると、言い争いを収めて死地に向かわせるがための詭弁とも取れます。
 まあ、士官としては、無駄死にと思っていても無駄死にとは言えない立場ですから、詭弁というのは可哀想かもしれませんが。だから、えーと、作り手は「本当は兵士は無駄に死んだのだけれど、その死を無駄にしてはいけない」と思っているかもしれないけれど、一茂士官が「我々は無駄死にか」と言った兵士たちの言葉を否定した格好になっているため、受け手である観客は、無駄死にという認識を持たないまま、「今日の私たちのために死んでくれた人がいる。ありがたや。」と思う可能性があるということです。
 え〜、要するに兵士の死を無駄にしないためには、彼らは無駄に死んだのだという認識が必要だと私が思っているということです。で、無駄死にというのを一茂士官が否定した格好になっているのが気に入らないのですが、士官だから“しかンたがない”と自らを納得させているということです(笑)。

ヤマ(管理人)
 僕はね、ここで大事なのは、士官と兵士という立場の違いよりも、自身について語った言葉か、他者について語った言葉かってことだと思うんだよね。例の“自己責任”っちゅう言葉もそうなんやけど、自身に対して使う場合は、決して不快な言葉ではないよ。他者に求めるから卑劣極まりない言葉になるのであってね。
 それで言えば、一茂士官は、大和に乗って死に向かう「我々」として、余儀なき状況のなかで覚悟を抱きやすくするために語ったのであって、死に向かう覚悟のみを美化していたわけではなかったよね。

(お茶屋さん)
 それはそうなんですが、私としては覚悟なんかしたくないので、あんなことを言われるのは嫌なんです。

ヤマ(管理人)
 それは真っ当な話やね(笑)。僕も嫌や。

(お茶屋さん)
 一茂士官としては、状況も立場も映画としても、覚悟を抱きやすくするために語るしかないのだけれど、あんな奇麗ごと、自分が死ぬのに納得できるセリフではないです。

ヤマ(管理人)
 そやから、哀れなんよ。

(お茶屋さん)
 「確かに我々は見捨てられたも同然の犬死だ。腹が立つ者は、記録しておけ。誰かがそれを読んで、我々の痛憤をわかってくれることを一縷の望みとして死のうではないか。(くっそう〜〜!)」と言ってくれたほうが、 私の気持ちには沿うな〜。私が監督・脚本なら、そういうふうに作ったね(笑)。

ヤマ(管理人)
 そのパターンだと訓辞にはならんだろうけど、うん、勿論それもありだし、そのほうがもっと痛憤が前に出るね。けど、もうこういう心境で臨むしか立つ瀬がないほどの哀れさという点では、怒りをぶつけている姿よりもインパクトがあるように僕は思うよ。
 “武士道”と“士道”との使い分けで、前者に“死を以って向かう覚悟”、後者に“生に執着して向かう覚悟”という説明をし、ともに“覚悟を以って臨むこと”の重要さを語っていたんだけど、残念ながら「“武士道”と“士道”との使い分け」の強調に終わって、ちょっと不得要領で説明不足な内容になっていたけどね。で、もし、あれが安全な防空壕のなかから一歩も出てこようとしない連合艦隊司令部の将校の送り出しの言葉だったら、同じ言葉でも、他者に求める“自己責任”と同様に、欺瞞に満ちた言葉になるよねー。

(お茶屋さん)
 そうですね。

ヤマ(管理人)
 とっても大事なのは、お茶屋さんが「兵士の死を無駄にしないためには、彼らは無駄に死んだのだという認識が必要だと私が思っている」という部分で、僕も同感だし、僕はこの作品がまさしくそれを描いた作品だったように思ったんだよね。むしろ一茂士官の言葉は、まさしくそのために設えられてた台詞だったとね(あは)。

(お茶屋さん)
 すみませんね、欺瞞だなんて言って。今もそう思ってるけど(^_^;。

ヤマ(管理人)
 まぁ、本質的には欺瞞なんだろうけどね、やっぱ(たは)。でも、欺瞞であっても、いささかなりとも気休めになるのであれば、「溺れる者、藁をも縋る」みたいなもんであって、実際、何も差し伸べられないなら、たとえ藁でもないよりはましみたいなとこないかなー(苦笑)。上官なんだし。

(お茶屋さん)
 うん、だから、私も上官なんだからというところで、あの展開は仕方なく納得しています。一茂士官のセリフは、私にとっては「もうこういう心境で臨むしか立つ瀬がないほどの哀れさという点」を感じさせるよりも、作り手の「無駄死ににはさせないぞ」という思いのほうが前面に出たという感じかなあ?

ヤマ(管理人)
 登場人物そのものの台詞というよりも、その口を借りた作り手の真情吐露というわけだね、なるほど。確かに、そういうのは表現手法として往々にしてあることだ。

(お茶屋さん)
 それで、あのセリフは、兵士の思い(というか兵士になったつもりの私の思い)から距離があったのかな? ←これは、ヤマちゃんと話していて、そう思うようになったのであって、映画を観ているときは腹が立ったもの「気休め言うなーっ」て(笑)。「誤魔化すなー」だったかな (^_^;?
 それはともかく、さっきの藁の話ですが、縋るための藁は私も大事だと思いますよ〜。

ヤマ(管理人)
 だよねー。藁の意義を馬鹿にしちゃいけないよねー。

(お茶屋さん)
 ちょっと別の話になりますが、私の父の祖母が亡くなるとき、「土葬にして。火葬は嫌や。」と言われて「わかった。埋めるき、安心して逝きや。」と答えたそうな。それで火葬にしてるんですけど(爆)、私の好きな話なんです。

ヤマ(管理人)
 そういうのは、嘘とも欺瞞とも言うべきことじゃないよねー。

(お茶屋さん)
 そうですね。だから、ヤマちゃんの気持ちもわかったよ(^_^)。

ヤマ(管理人)
 で、無駄にしないということでは、死のみならず生についてもそうなんであって、だからこそ、老いた神尾は激しい慟哭に震え、発作まで起こして瀕死の状態を迎えるわけでしょ。内田二等兵曹と違って自分は生き残った命を無駄に過ごしてしまった!と。あの稀有な体験を生き延び、戦友の悲壮な覚悟を目の当たりにしていたのに、その自分さえもが彼らの死を無駄にしていたことになるって。
 神尾は、真貴子から内田の戦後を聞いて、そのことに覚醒したわけだよね。そして、これ以上、彼らの死を、生き残った自分の命を、無駄にしてはならないという覚悟が最後の敬礼だったように僕は受け取ったがよ。

(お茶屋さん)
 うん、これはね、ヤマちゃんの日誌を読んで、それから自分の感想も読み直して、映画を見ながら自分がどう感じていたかを思い出したんですが。神尾が生き残った命を無駄にしてしまったと悔やみ、「これ以上、彼らの死を、生き残った自分の命を、無駄にしてはならない」と決意したときは、私もよかったと思ったのよ。でも、最後の三者揃っての敬礼が、その神尾の素晴らしい決意を帳消しにしてしまったのよ(私の中で)。もっと、気を遣って作りやね〜(笑)。(一茂士官のセリフにせよ、この三者揃っての敬礼せよ、その前のよい場面を帳消しにする作用を私にもたらしたので、愛国称揚の印象のほうが強く残ったのだと思います。)

ヤマ(管理人)
 確かにね。そういうふうに作用したんなら、不満に繋がるよねー。

(お茶屋さん)
 それから、もう一つは、内田のキャラが、戦後にガラリと変わりましたよね。まあ、世の中が180度変わったんだから、それも有りかと思いながら観ておりましたが、内田が子どもたちに伝えた戦友と大和の話は、戦時中の内田の様子からすると、戦うことを善しとする側から話したと思ったんですね。決して無駄死にとは言わなかっただろうと。だから、私の感想でも「ありがとう」に分類されているのね。

ヤマ(管理人)
 あ、これは結構重要なとこだと思うんだけど、あの映画で描かれた戦時の状況って、基本的に全てが神尾の見聞きした事々の回想と真貴子が内田から伝え聞いた事々によって構成されているというのが、作品の形からして本来的な受け止めなんじゃないかって思うんだけどね。内田のキャラが戦後にガラリと変わっていることについては、どちらの部分にしても客観描写じゃないわけだ。神尾の回想と真貴子の伝え聞きだけだからこそ、僕が日誌に「直接的に戦艦大和の話なのに、映画のなかでは、いつの間にか艦長が交代しつつも同乗している顛末すら語られぬうちに、艦隊司令官までもが乗船したまま沈没に向かうわけだが、将校たる彼らについては殆ど何も説明がなく、家族にまつわる描写も一切ない。」という構成になってたんだと思うよ。
 つまりそこんとこは、下級兵士の彼らには詳細には知り得ない事々なんだから。そして、おそらく内田の語り伝えにしても、神尾の回想にしても、戦後、生き残ってから知った話も含まれているのだろうと思う。要は、この物語は、坂東ふうに考えるところの名もなき戦争体験者の視点からのものだったと思うわけさね。

(お茶屋さん)
 今、思うと、娘は大和の沈没したところまで慰霊に来ているわけだから、内田の話の内容は微妙なところです。「ありがとう」と言いにきたのか「ごめんなさい」と言いにきたのか。ヤマちゃんの言うとおり、「あなたたちの死を無駄にしません(敬礼)。」が、しっくりきますね。

ヤマ(管理人)
 僕は、この作品を愛国称揚の映画のようには受け止めんかったがやけど、お茶屋さんには愛国称揚の印象のほうが強く残ったことに、エンディングでの主題歌がもし、僕が日誌に綴ったように作用しちょったとしたら、やっぱり許し難いにゃ〜ってことになるでねぇ。

(お茶屋さん)
 主題歌については、長渕剛があまり好きでないため聴いてませんでした(^_^;。でも、ヤマちゃんが「まず最初に出てくる言葉がなぜ“国”なのか。なぜ国のための召還を望む英霊の声を模した歌なのか。」と言うような歌なら、やはり作り手は、生ぬるい。
 というか、私には反戦と愛国称揚がせめぎあっているような映画に思えたので、作り手とかは反戦の思いがあるのに、首相の靖国参拝を是とする人々の(見えざる?)圧力によって、中途半端な映画になったのではないかとか、かなり捻くれた心配をしています。

ヤマ(管理人)
 圧力よりは、過信じゃないのかなぁ。歌ひとつでぶち壊されるものかって(笑)。戦犯合祀の靖国参拝の是非には触れることのない形で、ひたすら無駄死にに向かって覚悟を持って臨んだ兵士や犠牲をこうむった庶民への哀悼の想いを色濃く塗り込めた作品だったよね。

(お茶屋さん)
 はい、そう思います。でも、最後の敬礼なんか、仲代が敬礼するのはわかるけど、京香は手を合わせてもいいんじゃないの?

ヤマ(管理人)
 これはそのとおりだね。そのほうが僕もいいと思う。

(お茶屋さん)
 皆が敬礼するのは不自然。でも、「あなたたちの死を無駄にしません(敬礼)。」って受け止めればしっくりくるんだから、じゃあ、三者揃っての敬礼もいいか(笑)。

ヤマ(管理人)
 あと「かるかん」を読んでニンマリしたがは、「内田の娘にしては鈴木京香は若すぎはしないでしょうか。」のとこやった。僕はそれでちょっと興を削がれた感じになったもんやから。
 けど、お茶屋さんは冷静に「戦後、20年くらい経ってからの養子でしょうか。」とも書き添えちゅうね。僕は、そっちへ行かんと日誌に書いたように愛を乞うひとのほうへ行ったがやけんどね(とほほ)。
 それと「そんな命令を出すなら、もうちょっと生存者が多いときに出したらよかったのに、と思って指揮官に腹が立ちました。」っていう件で、これがまさに『大日本帝国』のほうで問われちょった天皇の責任のとこやったように思うたねぇ。判断と決定に係る権限が天皇にはあったことを明確に表しちょった映画やったがよ。で、そやから責任はある!という立場やったようにも思うがよ。
 でもって、問われるべきは「始めた責任」やのうて、お茶屋さん流に言うと「終える“命令を出すタイミング”」を誤った責任のほうを問うちょったように思うた。加えて、天皇自身にはその覚悟がありよったに、彼に“生き恥”をかかせたがが軍部やったという感じで描いちょったように見えたがよ。なかなかのもんじゃろぅ?

(お茶屋さん)
 へー、なかなかのもんやねー。時代のせいもあるかもしれんねー。

ヤマ(管理人)
 いやいや、むしろ時代的なことで言えば、有事立法みたいな話が現実に出てきたりした後だし、右傾化という言葉ではもはや語られなくなり始めた時期だったように思うよ。そやから重みもあるわけだ。今がどこにまで来てしまっているかってことでね。
by ヤマ(編集採録)


      



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