『綴り字のシーズン』(Bee Season)
監督 スコット・マクギー&デヴィッド・シ−ゲル


 とてもFOXのアメリカ映画だとは思えない風変わりな怪作だった。アメリカ映画には似つかわしくない神秘主義的なところに力が入っていて、加えて、タイミング的にはちょうど今、奈良県の医師の長男が放火で家族を殺した事件を巡って、マス・メディアが報道している家族問題を想起させるような主題の窺える作品であった。(遺族が取材自粛を求める声明を出したにもかかわらず、マス・メディアが浮かれて報じている事の真偽のほどは定かではないが、報道陣が、事件ではなく、家族問題を報じることの重大さをきちんと認識しているようには思えない過熱ぶりが忌まわしいのは、いつものことだ。
 良妻賢母ならぬ良夫賢父を形式的には全うしている宗教学者のソール・ナウマン(リチャード・ギア)教授は、娘イライザ(フローラ・クロス)の持つ神秘的な能力に気づいた途端に、かねてより自身が関心を寄せ、息子アーロン(マックス・ミンゲラ)にも研究を継がせようとしていたらしいユダヤ神秘主義に則って“世界の修復”を求める儀式をイライザに託することに熱中し始めるわけだが、“穏やかさの内に包んだ威圧”という最もタチの悪い形で家族のみならず周囲の誰にも文句を言わせないようにして、妻子をスポイルしていることに無自覚で無頓着だったという点では、母の眠りの大学教授ジョージ(ウィリアム・ハート)に通じるところもありながら、より悪質であるような気がした。なぜなら、ジョージの場合は、彼がいかに凡庸で身勝手な人物で、うわべを繕う、自分だけに甘い弱い男であったのかということは、妻ケイトにも娘エレンにも見透かされていたように思えるが、ソールの酷薄さは、家族の心のなかに咎めの意識を誘発することで彼らに自衛をさせることなく、スポイルしていっているように見えたからだ。幼時に両親を失ったらしい妻ミリアム(ジュリエット・ビノシュ)が、改宗してまで希求していたと思しき家族愛の実現には、幻滅をも許さない違和感を与えることで彼女の心を蝕んでいっていたようだし、父親の期待とプレッシャーを一身に受けて、それに応えることを自身のアイデンティティの中核とせざるを得ない形で父に憧れるように育てられてきていたと思しき心優しいアーロンに対しては、妹に異能が顕れてくるや彼女から兄へ無関心の対象を即座に変更してしまうことで、彼を異教に追いやっていたようにも見えた。
 だが、最も僕の目を惹いたのは、そういった家族の問題そのものに向けられた作り手の視線ではなく、この作品のユダヤ神秘主義に向けられた関心と家族の物語の描き方が従来からのアメリカ映画のイメージを大きく逸脱していることだった。最終的には、十一歳の少女イライザが、その聡明さから確信犯として父親の願いを密かに打ち砕くことで“世界の修復”ではなく“家族の修復”を企図した顛末によって窺わせる希望というものを以て終えるあたりは、メジャー製作のアメリカ映画の約束事をきっちりと踏襲しているものの、二元論的な明瞭さとは程遠いニュアンスと幻想性に富んだ語り口に驚かされた。アーロンの異教への耽溺ひとつを取ってみても、単純な是非の元には晒しておらず、ある面、父親の呪縛への異議申し立てによる踏み出しであると同時に、それが自立とは異なる帰依であることの危うさをも強く印象づけていたように思う。視覚的にも、従来的なアメリカ映画のシリアスドラマには似つかわしくないような幻想性がふんだんに取り入れられていて、とりわけ文字を書く鉛筆の描線とともに零れ落ちる鉛筆の芯の小さな粉の一つ一つもまたアルファベットであるというイメージには圧倒されたし、先頃観たばかりの美しき運命の傷痕と通底するように“万華鏡”が人生を映すシンボリックなイメージで強調されていたことにも、アメリカ映画らしからぬ新味を覚えた。
 しかし、いくら「はじめに言葉ありき」の聖書文化圏にある国の作品だとはいえ、文字と言葉のなかに神秘主義的な“世界の修復”を企図する感覚というのが僕には馴染めず、また、摩訶不思議な感じで精神世界に入れ込む姿にも違和感が拭えず、折角のイライザのクライマックスシーンが神秘主義的な感興を伴う効果でもって響いてくるよりも、なんだか妙ちきりんな世界観を見せられたような感覚的ズレによって、家族物語としての感銘からは、むしろ遠ざけられる形になってしまった。検定ばやりの昨今、とうとう映画検定なるものも先頃始まったようだが、まさに日本の漢字検定に相当するような「スペリング・ビー」なるものを興味深く観つつも、怪作というふうに僕が感じた所以だ。
by ヤマ

'06. 6.23. 文化プラザかるぽーと



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