『お父さんのバックドロップ』
監督 李 闘士男


 映画のなかで、山口百恵が引退し松田聖子がデビューした年と告げられた1980年は、僕が大学を卒業して郷里に戻った年でもあるから、プロレスや格闘技を特に好むわけでもなかった僕でも、下田牛之助という名前を聞けば上田馬之助を想起するし、熊殺しの異名を持つ黒人空手家とくればウィリー・ウィリアムスの名を思い出す。そう言えば、極真空手のウィリーがアントニオ猪木と異種格闘技試合を行ったのも僕が郷里に戻った年だったような気がする。確かにそれは四半世紀も前のことなのだが、既に成人してもいたからか、僕のなかでは、この映画で回顧されるほどに遠い昔のような気がしない。だが、小学四年の一雄(神木隆之介)の歳であれば、僕にとってその歳が遠い日に感じられるように、1980年は遠い昔であろうし、おそらくは今の一雄が当時の自分と同じ年頃の息子を持つに至っているのではないかという気がする。

 そういうことを思うと僕には、盛りを過ぎた中年プロレスラー牛之助(宇梶剛士)が世界でイチバン強い父親なのだと信じた小学四年のとき以上に、偉くて大した父親だったことが身に沁みているであろう大人になった一雄のことが偲ばれる。だからこそ、この作品で僕の印象に強く残ったのが、牛之助と旧知の英恵(南 果歩)の「このまま押し倒したら許さへんで。ハケ口にはせんといて。」という言葉が発せられた場面だったのだろう。息子に「僕はお父さんが大っキライ。」と宣告され、それが故なきことではないために深く傷ついた牛之助が、落胆のあまり、英恵の経営する焼肉店で酔いに憂さを紛らわしていた勢いで、淋しさに任せて英恵に抱きつく。ところが、毅然としつつも慈愛と哀しみの籠もった声で英恵にそう言われ、彼女の小さな身体を心持ち抱き直して、讃えるようにぐいっと持ち上げてストンと降ろし、黙って店を出て行った場面だ。「あんた、起きてんのやろ」と声を掛けた息子の哲夫(田中優喜)に「母ちゃん、無理してからに」と冷やかされるほどにかねがね牛之助に想いを寄せながらも、彼が落胆のままに崩れゆくことを押し止めた英恵のこのことがなければ、僕は、牛之助がロベルト・カーマン(エヴェルトン・テイシェイラ)に無謀とも言える挑戦をすることはなかったような気がする。

 父松之助(南方英二)から「なんで、こんな無茶するんや」と問われ、「息子に尊敬されたいやないか」と零す牛之助のそれは嘘偽りのない真情だろうが、彼のなかに“尊敬”という言葉を触発したのは、逆に“恥ずかしさ”への自覚を促した英恵の言葉だったような気がしてならない。一雄も確かに悪役レスラーを演じる父親を恥じてはいたようだが、牛之助にとって最も痛烈だったのは、そのこと以上に、自分の好きなプロレス最優先で家族のことなどお構いなしの父親だから嫌いだということだったように思う。嫌われていることを気に病めば、好かれたいと思うのであって、ストレートに“尊敬”のほうを意識したりしないような気がする。尊敬を彼が意識したのは、尊敬できない自分というものに直面させられたからで、そこを触発した英恵の言葉は牛之助親子の関係にとっても絶妙のタイミングで、あたかも天の配剤のごとくもたらされたものだったように思う。南果歩の表情と声の調子が絶妙で、彼女が作品全体を通して大きな存在感を残していた作品だ。

 このときのことを後に一雄は哲夫から聞いたのだろうが、父親の無謀な決意に至る過程にこういう視線を獲得できるのは、やはり大人になってからであろうし、また自分が父親の立場になってからのほうが、この決意に秘められていた息子たる自分への想いとそれを実際にやってみせた父親の偉さが身に沁みるように思う。

 母を亡くして一年ほどで心の喪の作業をまだ終えぬうちに、大事に大事にしていた亡き母の映ったビデオを祖父の過ちで消去されて受けた痛手は計り知れなく、消しがたいしこりを残しかねない家族関係の危機に瀕して、余程の手だてを講じなければ挽回できないそのときに、実際に何事かを果たし得ることというのは稀なことのように思うが、それを成し遂げた父親というのは、やはり偉大な存在だし、父親というのはかくありたいと思わずにいられない。人生の業績というものは、地位や富を得ることではなく、実はこういうところにあるのだということを、そして、それは天の配剤のように巧く案配された行きがかりとタイミングを逃さず捉える“成り行きのなかでの決意”にあるのだということを、いささかベタで軽妙な筆致で描出したことが却って功を奏して、心に沁みる作品になったような気がする。

 併せて僕の胸に響いてきたのは、一雄と哲夫、牛之助と菅原社長(生瀬勝久)の間に固く築かれている友情と信頼だった。その関わり方や現れ方を観ると、男というのも悪くないもんだと珍しくちょっといい気分になれたりする。自分が果たし得ているか否かはともかく、男というものの端くれに自分も身を置いていることがちょっと嬉しくなれるような作品だったように思うわけだ。




推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0502_4.html
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20041210
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2004ocinemaindex.html#anchor001185
by ヤマ

'05. 3. 6. TOHOシネマズ9



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