『父、帰る』(Vozvrashchenie)
監督 アンドレイ・ズビャギンツェフ


 男親たる者が息子に植えつけ育みたいと思うことの第一のものは、やはりある種の強さとともに備えた“引き受けの力”であるということが痛切に感じられ、胸に迫ってくるものがあった。父親を演じたコンスタンチン・ラヴロネンコの面構えが抜群によく、大人しく心優しい兄アンドレイ(ウラジミール・ガーリン)と弱虫のくせに生意気で意地っ張りな弟イワン(イワン・ドブロヌラヴォフ)のニュアンスに富んだ瑞々しい存在感が、シンプルすぎるほどに舞台説明を省略した物語のなかで、圧倒的な精彩を放っていたように思う。一歩間違えば、投げ出しとも受け取られかねないような思い掛けない顛末を設えた脚本の大胆さには驚かされたが、それに取って付けたような印象を残させることなく、無情の余韻と兄弟の姿の激変ぶりを深く刻み込んだ演出力は実に大したものだと感じた。

 思えば、幼時からの12年間ものあいだ家を不在にしていた父親が“帰り”、存在したのは、わずかに一週間足らずだったのだ。あまりの長期の不在の果ての帰宅に対して、どう対処していいのか家族一様に戸惑いを窺わせている状況を丸ごと引き受けつつ、空白の12年間を性急に埋め合わせようとしていた男の姿が印象深かった。彼の妻であり、彼の息子であることを先ず歴然と知らしめることが肝要だと思っていたのだろう。

 そういう意味では、夫婦関係のほうはセックスというイベントがそれなりに分かりやすい効用を果たすという面もあって、息子兄弟が喧嘩して帰ってきた月曜日の午後、おそらくは長旅と事後の疲れによる休息であろうベッドでの眠りに男が就いている間に、ポーチで煙草を吸いながら物想いに耽っていた母親のなかでは、心理的にも受け入れ自体は既に終えていたような気がする。ところが、息子たちとの間ではそうはいかない。

 アンドレイの場合、まだしも幼時に父親と遊んだ経験と記憶が残っているであろう分、父親の“帰り”を受け入れやすかろうが、赤ん坊だったイワンにとっては、帰宅ではなく“出現”に他ならないわけで、父親を得たことを喜ぶべきとする感情と12年間の不在に対する憤りとの鬩ぎ合いのなかで戸惑っていた月曜日の夜から火曜日にかけての様子に、実にリアリティがあった。彼にとって不幸だったのは、父親の長すぎる不在に対する憤りをうまく吸収してもらえる場と出来事がないままに、憤りを直接的に転写できる父親の落ち度を先に見咎めてしまったことだったように思う。たかだかバックミラーに映る通りすがりの女の尻を目で追うことや兄の失態に対して強圧的に臨むことが、本来ならあそこまでの頑なさを招くほどのことだとは思えないだけに、根底にある憤りのほどが偲ばれ、そうならざるを得ないイワンの胸中が哀れだ。これ以降、二人の間は思わしくない方向にしか循環しなくなり、事ある毎にささくれ立って12年間の不在の埋め合わせどころではない顛末へと流れ込んでいくわけだが、その時々の息子と父の痛切なまでの姿の活写には目を瞠らされる。

 それにしても、一週間足らずの父親との野宿旅の前後での息子たちの激変のほどたるや、驚くほかないのだが、それが堂々たる説得力を備えていたのだから、その存在感は大したものだった。遊び仲間に弟への“クズ”呼ばわりを求められ唯々諾々だったり、父の用命で営業中のレストランを見つけてくることさえあてにならず、預かった財布は易々と強奪され呆然とするしかなかったりしたアンドレイが、無人島での恐るべき事故にも周章狼狽せずに事態を引き受け、対処に向かうことができるだけの“頼もしい男”に成長していた。また、イワンが引き受けなければならなくなったものは、アンドレイ以上に重く過酷なもので、彼自身にとっても12年間の父親不在という事態以上のものとなったろうが、それでも、兄とともに苦労しながら運んできた父の亡骸を図らずも水没させる際に見せた姿からは、その過酷さを引き受けられるだけの器量を得たことが窺われたように思う。それらは、やはり事態に対して常に身を以て対処する姿というものを単に見せるだけではなく、息子たち自身にも身を以て体験させ、知らしめていたからだろう。

 さすれば、男親たる者の息子に対する務めが“引き受けの力”を植えつけ育むことだとするならば、12年間の不在の後、わずか一週間足らず関わっただけで永遠の不在をやむなくすることになったにしても、父親は、そのわずかな間で男親の果たすべき務めを確かに完了させていたとも言えるような気がする。十年二十年関わっても一向にそれを果たし得ずに終わる父親もいるなかで、本望と言えば本望とは言えまいか。関わる時間の長短に意味があるのではなく、何を植えつけ育むことができたかに意味があるということだ。しかもそれは場合によっては、わずか数日で果たせることもあり得るものともなれば、決して取り返しのつかないことでもないというわけだ。そして、父親たる者、それさえ学ばせ身につけさせることができれば、十分以上だという気がする。

 それにしても、人が引き受けを迫られる事態として、あれ以上に過酷で心細い事態は、なかなか想像できないように思う。この作品では、そのこと以外の一切にまつわる説明をほぼ完全なまでに排したことで、父親が植えつけ育んでいったもののことのみが際立ったように思う。なかなかこういう脚本を書く勇気は持てないものだし、また諸々の説明排除によって受け手の側にあまた湧いてくるはずの疑問に対し、それを一切不問にして余りあるものを残すだけの映画に撮り上げることも、生半可なことではできないように思う。実に大したものだ。




推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲がっちゃいました。」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2004ticinemaindex.html#anchor001174
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2004/2004_10_11_2.html
推薦テクスト:「こぐれ日記〈KOGURE Journal〉」より
http://www.arts-calendar.co.jp/KOGURE/05_01/VOZVRACHCHENIE.html
推薦テクスト:「Puff's Cinema Cafe」より
http://www.ff.e-mansion.com/~puff/2004c.htm#Vozvrashcheniye
by ヤマ

'05. 3.20. 美術館ホール



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