『トスカーナの休日』(Under The Tuscan Sun)
『ル・ディヴォース パリに恋して』(Le Divorce)
監督 オードリー・ウェルズ
監督 ジェームズ・アイヴォリー


 第145回市民映画会の二本立ては、離婚にまつわるアメリカ人女性の姿を共にヨーロッパを舞台にして描いた作品だった。『トスカーナの休日』の作家フランシス(ダイアン・レイン)にしても、『ル・ディヴォース』の芸術家の妻ロクサーヌ(ナオミ・ワッツ)にしても、藪から棒のようにして夫の浮気や心変わりから離婚に直面することになったばかりか、それに伴う条件的なものについて制度的なものが些か理不尽な形で厳しく迫っていた。人間関係からも制度からも痛めつけられるというわけだ。僕の目を惹いたのは、両作ともアメリカ人女性を主軸にアメリカ人の監督が撮った作品で原作も共にアメリカ人女性であると思われるのに、映画作品が共にアメリカ映画らしからぬ味わいに満ちている印象を受けたことだった。

 良くも悪くもアメリカ映画は、ストレートでシンプルな作品が多いように思うのだが、イタリアを主な舞台とした前者もフランスを主な舞台とした後者も、共に単に舞台をヨーロッパに採っただけでなく、登場人物の人間関係や心理のなかのニュアンス的なものを重視した描き方がアメリカ映画らしからぬ味わいを醸し出していたように思う。後者の監督は英国で頭角を現し、作風的にも元々アメリカ映画色の乏しいアイヴォリーだったが、同じヨーロッパを舞台にしても前者がいかにもイタリアらしい明るさと生命感を備え、後者がいかにもフランスらしい皮肉と洒脱さを備えているのを目の当たりにすると、ここまでフレンチ・テイストを備えた作品は彼にもなかったような気がしてくる。それでいて、それぞれの作品は共に、イタリア映画やフランス映画の本来的なものとはやはりテイストが異なっていることを実感させられるところがあって興味深く、題材的にも共通するところがあっただけにそういうところが際立った感じを受け、絶妙のカップリング上映だったように思う。

 僕が前者のほうを好んだのは案外、後者で中心的に描かれた、ロクサーヌの妹イザベルを演じた若いケイト・ハドソンよりも中年のダイアン・レインのほうが自分の好みだったからだけなのかもしれないが、ほどよい距離感でフランシスを見守るマルティニ(ヴィンセント・リオッタ)の存在感が気持ちよく、マルチェロ(ラウル・ボヴァ)との束の間の恋の拾得と喪失におけるフランシスの描き方がとても好感の持てるものだったからだという気がしてならない。憧れの太陽を意味する“ブラマソーレ”という名のポンコツ屋敷を旅の途上で衝動買いしてからのしばらくは、エピソードを雑多に盛り込んだことでの散漫さが少々気になったが、それが最後には総て有効に収斂し、一つの大きな膨らみとして結実してくるのが気持ちいい。生命感を創造していて主人公の魂の再生を実感させてくれた。毎日の散歩で道端の聖母像に花を添える老人や水涸れのきていた水道栓さえもがラストをきちんと飾っていて、納得と感心の得られる結末だったように思う。

 後者でもイザベルを愛人にするエドガル(ティエリー・レルミット)の人物造形が興味深く、イザベルの変化と吸収ぶりを観ていると、少々苛立ちながらも納得させられることも多々あって、チラシに刷り込まれた“フランス式恋愛講座”というのが分からぬでもない講座的気分を味わった。恬として恥じない怯まない譲らないエドガルは気にくわない奴だが、ああいうところが格好いいのだろうと解るように描かれていたような気がするし、まるで厭な人物には描かれていなかったところが妙味だった。ロクサーヌの夫に妻を寝取られたアメリカ人弁護士テルマン(マシュー・モディン)の直情径行ぶりとの対照からも、くせ者エドガルは貶められずに、むしろ肯定的に描かれていたように思う。原題でもある『ル・ディヴォース』の意味するところは、直接的にはロクサーヌの離婚だろうが、主題的にはむしろイザベルの娘時代との別れのように感じられるところが洒落ていると思った。姉の離婚を間近に観ながら父親ほどに歳の離れたエドガルとの恋愛体験を経たことでイザベルは、パリに来て早々にイヴ(ロマン・デュリス)とセックスに興じていた頃とは大きく違う女性になり、赤いケリー・バッグとも別れてアメリカに帰国したのだった。

by ヤマ

'05. 1.21. 文化プラザかるぽーと



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