『海猫』
監督 森田芳光


 突然の婚約破棄を告げられて心因性失声症になってしまう美輝(ミムラ)の母親なのだから、薫(伊東美咲)もまた、センシティヴで脆弱な部分を心に抱えた女性だったのだろう。彼女が邦一(佐藤浩市)の逞しさや強さに惹かれたのはそれゆえのことで、ロシア人の血を継いで青みがかった彼女の瞳に頓着しない大らかさにも心を許したのだろう。おそらくは子供の時分に好奇の目で観られ続けたであろう記憶が染みついていたと思われる函館の地を去りたくもあったのだろうが、一番には逞しい邦一と彼の強さを育んだ漁村に同化することで、彼女自身が逞しく強くなりたくて、周囲の反対を押して選んだのだろう。

 人は多くの場合、自分に欠けているものに憧れを抱く。憧れを憧れに留めて遠くに置いている分には心的活性剤として有効に働くと思うが、時として、憧れを自分が追求すべき理想と混同してしまうことがあって、欠けている部分を補充することが自身に適合するのかどうかを不問にしたまま挑み、傷つきの深みに嵌まってしまう。真面目で観念性が強く知的な理想家肌の人ほどそうなるような気がする。

 夫からも姑からも喜んで迎え入れられ、邦一が「薫の評判は、えらくいいぞ。」と嬉しそうに母みさ子(白石加代子)に語り、薫もまた懸命に漁家に馴染もうとしていたけれど、読書が好きでパウル・クレーに惹かれる彼女は、似たような嗜好性を持ち絵画をたしなむ広次(仲村トオル)が母親からも奇異の目で見られ、漁村に馴染めずに臼尻から出て行ったように、元々漁家の暮らしに適合できない女性だったように思う。この作品が、“憧れ”と“追うべき理想”の見誤りに端を発した悲劇となっているところに充分な説得力があって、伊東美咲がそのような女性の脆さと危うさを体現していて感慨深かった。

 主要人物たちには皆々人間的弱味があり、悲劇へと至る運命の流れを変えられる器量を備えた者が一人もいなかったけれど、薫の母タミ(三田佳子)が孫娘美輝に「美輝の母さんは懸命に精一杯生きたのよ」と語るように、他の人々も含めて魂の穢れを感じさせるような嫌な人物が一人もいなかったのが、悲劇の哀しみを深めていたように思う。特に感心したのは、邦一の描き方だった。看護婦啓子(小島聖)を配置したことで、邦一と薫の関係の破綻が人物の良し悪しではなく不適合性によるものであることが鮮やかに浮かび上がっていたように思う。彼が巷間言われるような浮気を甲斐性として遊び呆ける亭主ではなく、啓子との関係にしても、和合できない夫婦の哀しい関係の果てのものとして捉えられていたところに含蓄があったような気がする。

 夫の逞しさ強さに惹かれて嫁いだ薫が、邦一との性行為に心の満足も身体の歓びも得られないでいる様子がありありと描かれていたが、それが必ずしも彼女の性的未熟さとは言えないのは、広次との交わりとの対照で明らかだし、邦一が、薫の脚の指にまで舌を這わす広次のような優しくソフトな愛撫をしないどころか、昼の弁当を持ってきた薫をやおら浜の小屋に引き込んで尻を剥いて交わるような自己本位で、女に心の満足も身体の歓びも与えられない男なのかと言えば、啓子には「もうアンタから離れられない」と言われるだけのものを与えることができる姿が描かれることで、男女の交わりもまた肌合いという適合性によるものに他ならないことが強調されていたように思う。啓子のように激しく反応するどころか、広次との交わりでは見せていた男の乳首を啄み求めるような応え方さえ些かも見せない薫との交わりに、邦一がどんなに寂しく虚しい思いを抱いていたのかは想像に難くない。精一杯力一杯、愛そうとすればするほどに妻が冷えていく不適合は、どちらが悪いという性質のものではないように思う。肌合いが悪いのだろう。「断るのだけは止めてくれ、どうしていいか分からなくなって頭がおかしくなる」と邦一が口にしていたように思うが、妻を得たばかりの精力溢れる若者ならば無理もない。

 一方、漁師の嫁として真面目に一生懸命努めても不適合性の溝が一向に埋まらないどころか、長女美輝を得て母となっても臼尻の漁村では、心の居場所を昼も夜も得られないままに過ぎていき、孤独と絶望感を深めていくしかなかったと思われる薫にとっては、かねてより想いを寄せてくる夫の弟との間で適合性の感触を重ねたことが、ますます苦しい胸中に向かわせたのだろう。「一度だけ、あなたに抱かれに来ました」と函館の義弟を訪ねるまでの切迫感に追い込まれたときの女性の心のなかに何が宿っているのかは、僕の想像が及ばないけれども、単なる恋情だけではないことが明らかだ。彼女をそこまで追い込んでしまうことになる想いの表出を抑えられない弱さを剥き出しにした広次は大きな責を負っているが、彼とても、兄嫁を抱いて娘をもうけてしまったことには怯まず、臼尻の漁村でどんどん衰弱していく薫を本気で救い出す覚悟を決めて身を挺したのだから、卑しい男ではけっしてない。

 ままならない人の生において、不適合のもたらす運命の過酷さを邦一の「くっだらねぇ家族になっちまった」との呟きに凝縮させて劇的に描きつつ、一歩間違えば、浅ましくも無惨な愛憎劇になりかねない物語に品性を宿らせていたところに感心した。薫の弟孝志(深水元基)と幸子(角田ともみ)のカップルの描き方や事件以来、漁村のリーダー青年から外れ者の位置に転落した邦一のその後に寄り添った啓子の姿を添えていたことも、それには有効に作用していたように思う。加えて、孫娘二人に娘薫に起こった出来事の総てを伝え、美輝を失声症から回復させるとともに、美弥の亡き父広次が母薫と生まれたばかりの美輝を描いた母子像を見せて「これでようやく務めが果たせました」と最後に呟くタミの姿には、娘薫のみならず亡夫への語り掛けが潜んでいるように感じられたのだが、そこには妻、母として生きた女性の靭さというものが宿っていて、これらの女性の描き方には、さすが原作・脚本ともに女性の手による作品だとの感慨を覚えた。




推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0412-2umineko.html#umineko

by ヤマ

'04.12. 1. TOHOシネマズ2
      



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