『もうひとつのアフガニスタン カーブル日記1985年
監督 土本典昭


 今年の7~8月に掛けて“第1回東京国際ドキュメンタリー・アーカイブス”と銘打って三会場で開催された“土本典昭フィルモグラフィ展2004”からのセレクションプログラムが、同名企画の形によって高知でも上映された。セレクトされた16作品のうち、僕が観たのは『パルチザン前史』('69)、『水俣-患者さんとその世界-』('71)、『不知火海』('75)、『海盗り-下北半島・浜関根-』('84)、『はじけ鳳仙花-わが筑豊、わが朝鮮-』('84)、『もうひとつのアフガニスタン カーブル日記1985年』('03)と来高した土本監督へのステージ・インタビューだ。僕が土本作品を観るのは初めてなのだが、『もうひとつのアフガニスタン』以外は、ドキュメンタリーフィルムの大家の傑作として、僕でさえタイトル名に覚えのある作品ばかりで、今回ようやく初見に至って、なるほど名を馳せるに足る作品だと大いに感銘を受けた。

 ステージ・インタビューで、土本作品に脈々と流れる「弱者に向ける眼差しと反権力の視線を保ち続ける原動力は?」と問われ、そういうのはマスコミでもそうだが、姿勢的にはむしろ取りやすいポジションだからと事もなげに語りつつ、自分はフリーだからマスコミジャーナリストが時事の流れに乗って仕事として片づけていくようにはいかない、自ずと関係性が問われるし、そのなかで自分が学び生じるさまざまな現場の具体をフィルムにしていくのがフリーとしてのアイデンティティだと思うというようなことを語っていたのが印象深い。諸作に現れるインタビュアーとしての土本氏の声が、強い意志を窺わせながらも常に穏やかな大きさを感じさせていたことも印象深かったのだが、それを裏づけるような自負と知性の高さをひしひしと感じた。もうひとつ印象深かったのが、「デジタルビデオやDVDといった技術革新によるドキュメンタリー映画の変容」についての質問に対し、一人で撮って一人で編集するような方法論に対する懐疑を明言したことだった。少ない人数であっても、スタッフという複数の目と感性によって仕上げられるべきものが映画だと思うというようなことも語っていた。そこには、表現の客観性などという馬鹿げた論点とは異なる、事象に対して臨む複眼性の重要さを体感してきているであろうことが土本氏に偲ばれ、作家としての信頼感を寄せるに足る見識が窺えるように感じた。


 前世紀の作品群が見事に時代を照射し、今なお一向に色褪せない力を有していることに瞠目しながらも、同時代性を旨とすることを以て映画の本質とするような受け取り方をしている僕にとって、今回最も興味深かったのは、やはり2003年になってからの作品だった。作品の冒頭で、自分はアフガンの歴史に疎く、関心を持ち始めたのは王政が倒れた'70年代からで、戦車の砲筒に花輪が掛けられていたという記事を目にしてからでしかないとのナレーションとともに'70年代から今に至る膨大なスクラップブックが書棚に並んでいる様子が映し出され、新聞の切り抜き記事を掻い摘んで映したり、ニュースフィルムを挿入する形で'78年の四月革命からの経緯と革命政府の政策展開や政変の概略が綴られる。観ている僕のアフガンについての知識が、疎いと語る作り手の足元にも及ばない空白さのなかで、新聞報道だけでも意外と報じられてきていることや見覚えのある記事の発見に少し嬉しくなったりしながら、そういう記事すら忘却の彼方にあったことを改めて知らされる。

 しかし、最も印象深かったのは、富裕階層や宗教者の強い反発とそれへの妥協のなかでの内戦状況を孕みながらも、'78~'92年の十四年間続いた社会主義政権の進めていた民主化への作り手の支持と共感だった。その中期に当たる'85年に現地の民衆の生活を捉えた映像には僕が想像もしなかったアフガンの希望が宿っていた。大胆とも言えるほどの強力な農地改革や女性解放、識字運動、住宅政策や就労訓練を推進した革命政府の施策は、首都カーブル中心に留まる限界を示しながらも、「カーブルを征する者はアフガンを征する」との国情のなかで強力に押し進められ、それが民衆、特に女性や子供といった社会的弱者の明るく希望に満ちた表情を引き出していたことがよく判る。驚異的な進展を見せた識字運動は、ユネスコからも顕彰されたことが示され、日本の援助によって敷設された水道施設が、とりわけ“きれいな水”の供給に大きな価値のあるアフガンにおいて、市民のこよなき喜びを引き出している姿が眩しく目に映るのを観ていると、どうしてアフガンが今伝え聞く惨状を呈するようになったのか、無念でならない。作り手の思いは、まぎれもなくそこにあるのだろうと思いつつ、なぜ2003年になってから'85年の記録を作品化したのかというところに想いを馳せないではいられない。

 そこには、やはり“民主化”を名目に自らの利権漁りに狂奔しているアメリカの対イラク政策への怒りがあるように思えてならない。この作品でも言及されていたように'85年当時のアフガンは、厳しい内戦状況が国軍のみならず民兵の存在を必要とするばかりか、ソ連軍の進駐を促して、その駐留下にさえあったわけだが、アフガンの革命政府が、社会主義を標榜した他の国々に決まって観られる“ソ連型のカリスマ的指導者への個人崇拝”を強いる政権を指向せず、ソ連の軍事協力や技術指導・物資供与を受けながらも、ソ連に追従するような社会づくりをしていなかったことに作り手は敬意を払っていたし、何よりもソ連がそのことを許容していたことを密かに讃えていたように思う。社会主義国特有の革命記念日の大パレードという国家行事に際して、駐留しているはずのソ連軍の影がどこにも見えないことや、他の社会主義国には見られないパレード参加についての自由度が保障されている姿に作り手の言葉が及ぶのは、その証左に他ならない。

 翻ってアメリカのイラク駐留における暴挙のほどは留まることをしらないように僕には思えるし、ソ連のアフガン進駐が常に“侵攻”という表現でしか伝えられず“民主化”という言葉が決して冠せられなかったことを思うとき、アメリカのイラク進駐に“民主化”という題目を与えることの不合理さが目に余るような気がする。侵攻というならば、どちらも侵攻であろうし、民主化のための進駐と言うならば、どちらもそう主張するだろう。むろんソ連軍が軍隊である以上、アフガンでいささかも非人道的な攻撃を行わなかったとはおよそ思えないけれども、あのソ連でさえ、少なくとも今のアメリカのイラク侵攻ほどに酷くはなかったのではないかという気がした。そのことが、敢えて2003年になって作り手がこの記録を作品化した一番の動機だったような気がする。


 それにしても集客状況が惨憺たるありさまで勿体ないことこのうえない。その一方で、一部に非常に熱心な観客もいて、中一日置いた四日間の連日上映で16作品全てを観る人や『ある機関助士』を二桁回数観ている人もいたようだ。『ある機関助士』や『ドキュメント路上』『留学生チュアスイリン』を上映した初日は、僕も観に来たいと思いながら叶わなかっただけに残念が募り、会場との質疑応答のなかで作品名の出た『海とお月さまたち』や『もうひとつのアフガニスタン』を観てから後の『よみがえれカレーズ』など、観逃したことが悔やまれる作品が多々あった。しかし、どの作品も概して重量感に満ちていて、近頃は体力気力ともに従前のようにはいかなくなっている僕にとって、6作品633分を二日で観るだけでも相当に応えた。しかし、再び機会を得ることはそうそうなかろうだけに、折角の機会にもう少しゆとりがあればとの憾みが残る。




推薦テクスト:「土 本 典 昭 文書データベース」より
https://tutimoto.inaba.ws/honbun.php?bunsyo_id=845
by ヤマ

'04.11.14. 美術館ホール
      



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