『愛怨峡』('37)
監督 溝口健二


 どうやって調達するのか、いつも貴重な日本映画を見せてくれている「小夏の映画会」が昭和12年のキネ旬ベストテン第3位の溝口作品を上映してくれた。川口松太郎の原作もののようだが、その名も“おふみ”との主人公を演じた山路ふみ子が前面に押し出されたような作品だった。雪国の旅館の跡取息子謙吉(清水将夫)の子供を身ごもりながらも、許しを得られず、駆け落ちして東京に出たものの、不甲斐ないボンボン育ちの男には結局捨てられて、女給や芸人に身をやつしながらも逞しく生きていく姿が描かれていた。いかにも溝口作品らしい強い女性像が印象深い。山路ふみ子の存在感が抜群で、つつましくも頼りなげで一途さのみが際立つ若さに留まった女性から、次第に逞しく強く脱皮していく女の姿を見事に演じていた。
 特に鍵となるのは、流しのアコーディオン弾き芳太郎(河津清三郎)が初めて出会って心惹かれたときの清冽さの体現であり、すっかり身を持ち崩してもなお、芳太郎にとっては易々とは手を出せない形で奥深く保たれていることの体現だったように思うが、一見したところ、別人とも見えるような変貌を鮮やかに遂げつつ、芳太郎にとっては決して別人には見えてないさまを巧く演じていたように思う。それはまた、謙吉が頭の上がらなかった先代安造(三桝 豊)から身上を譲り受け、主となった自負と彼女に対する悔恨から、再びおふみ母子を引き取ろうとしたときに、謙吉には愛想を尽かしながらも子供のために芸人稼業から足を洗うべく過去を窺わせない所作振舞いを立派に見せることが、観ている側の違和感をまるで誘わないところにも達者に窺えた。さまざまな“女の貌”を変貌と不変をともに孕んで奧行き深く見せる演技にこそ観処があったわけで、そういう意味では、上映前に主催者から断りがあったように、フィルムの状態が良くなくて、表情が鮮明には映らないほどピンぼけがひどかったのが惜しまれる。
 おそらくは、35mmから16mmに焼き直した段階でのフィルム自体の不始末であって、映写段階での問題以前の状態だったのではないかと推察されるのだが、加えて、記録に残っている尺からは十数分短い不完全版だとの断りがあってもなお、配布されたチラシに記されていた浪華悲歌』から始まった引きの長回しによる客観的な凝視の方法は、『祇園の姉妹』からこの『愛怨峡』へと引き継がれ強められているが、その凝視のカメラによってとらえられた人間のドラマが、ギリギリと弦をひきしぼるような<力>となって伝わってくるところに、『浪華悲歌』や『祇園の姉妹』と異なる『愛怨峡』独自の魅力がある。との作品を観る機会が得られたことは、僕に大いなる満足を与えてくれた。
 それにしても、昭和12年と言えば、軍靴の響きが日増しに高くなっていた頃だと思うが、流しや女給たちを料亭に引き連れ豪遊し振る舞うかのように見せかけ、ちゃっかり彼らにツケを回して無銭飲食を決め込む身なりのいい街の紳士(菅井一郎)のこすっからさや、旅館父子の薄情さとだらしなさなど、持てる側の無責任さと卑しさを折り込んで堂々たる色物を撮っていた作り手の性根が何とも嬉しい作品だ。結局、謙吉の元を去り、再び芳太郎と漫才のステージに立って、彼らとは一線を画して生きていくおふみの姿を捉えたラストショットが凛々しく素敵だった。
 帰宅後、手元にある古い「現代用語の基礎知識('79年版)」の別冊付録の年表を見ると、「映画の巻頭に“挙国一致”“銃後を護れ”などの一枚の挿入がはじまった」年のようで、かの国家総動員法が閣議決定された年でもあった。

by ヤマ

'04.10. 2. 平和資料館・草の家
      



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