『ぼくは怖くない』(Io Non Ho Paura)
監督 ガブリエーレ・サルヴァトーレス


 十年ほど前に『エーゲ海の天使』を観たときも、戦時ドラマとしてのシチュエイションと視点の置き方の斬新さが目を惹いたのだが、少年誘拐事件を扱ったこの作品でも今までに観たことがない視線からのドラマ構成に意表を突かれた。子供を誘拐された被害者でも、当の子供でも、誘拐犯を追う警察や追われる犯人側のものでもない、犯行グループの一人である男の息子たるミケーレ(ジュゼッペ・クリスティアーノ)の視点から綴られたドラマなのだ。ミケーレが誘拐されたフィリッポ(マッティーア・ディ・ピエッロ)と同じ10歳の少年であるところが効いている。
 『エーゲ海の天使』が、戦況のさなかにありながら、それとはおよそ懸け離れた美しくのどかな地中海の島の風景と生活を映し出しつつ、折々に戦争の影を忌まわしきものとして窺わせたように、脚本は異なるものの『ぼくは怖くない』でも、黄金色に波打つ圧倒的に美しい麦畑や青い空の広がる南イタリアの田舎村の風景が印象的だ。その自然の美しさといかにもそぐわない陰惨さを醸し出すのが人間のしでかす行為で、年端もゆかない少年を誘拐して一筋の光も射し込まない土中の穴蔵に鎖で繋いで監禁していた。美しい麦畑も陰惨な穴蔵も共に抱え込んでいる大地の大きさと人為の卑小さとの対照が哀しく印象に残る。そんな感慨をもたらすうえでは、やはり恐怖と不安で神経を苛まれた10歳のフィリッポの傷みようの凄惨さを簡潔に描出した、ミケーレが彼を発見し再訪して穴蔵に降りて声を掛けた場面の持つ凄みが大いにものを言っているように思う。暗黒のなかで目も瞑れかけ、光を受けつけられず、脈絡の取れない呟きのような反応で会話もうまく成立しないほどに傷んだフィリッポの姿と、ミケーレに表に連れ出してもらって、麦畑のなかで負ぶってもらったり自転車に乗せてもらったりして取り戻した笑顔との対比が、実に鮮やかで痛烈だった。
 しかし、最も痛烈なのは、ミケーレの父親でもある誘拐犯のピーノ(ディーノ・アップレーシャ)が少々粗野なところを覗かせながらも、家族を大事にするよき父親であることだ。意に沿わない犯罪への荷担に生活苦からやむなく追い込まれた形になっていた。実行犯ではなく幇助という形では、この村の人々が、近所同士で一丸となって悪辣至極の犯罪に手を染めていた。経済成長から取り残された田舎の美しい村に住む人々と、誘拐報道のTVに映った都会に住む金持ち然としたフィリッポの親との貧富の対照は一目瞭然で、これを村ぐるみのような犯罪として設えてあるところに痛烈な社会批判の目が潜んでいる。
 それと同時に、貧困と抑圧の状況に根ざした面から頻発しているようにも見える昨今の世界各地でのテロ事件についての眼差しも潜んでいるように感じられた。むろん擁護も肯定もしてはいない。ピーノが痛烈なしっぺ返しをくらう顛末や犯行が失敗に終わる結末が用意されている。それでも、父親のピーノばかりか母親のアンナ(アイタナ・サンチェス=ギヨン)をも凶悪犯罪へと追い込み、ミケーレともども悲劇的な顛末へと至る状況を生みだしているものが何なのかを問い掛ける視点に揺るぎがないところが、やはり作り手の志のようなものを感じさせる作品であったように思う。そして、そのような志を静かに哀しく浮かび上がらせるうえで、作り手の設けたシチュエイションと視線の置き方の選択は、斬新さに留まらない効果を挙げていたような気がする。併せて、イタリアの南北問題というのは、グローバルな南北問題と同じく、とても根深いものであることを偲ばせていたようにも思われた。

by ヤマ

'04. 9.28. 美術館ホール



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