『クイール』
監督 崔 洋一


 妙に不思議な居ずまいの悪さに受け手としての身の置き所に困惑させられた作品だった。故人を偲ぶように故犬を偲ぶ、言わばプライヴェート・フィルムのような“内輪の肌触り”に特長があるのは、クイールゆかりの女性たちのモノローグとも他者への説明とも言えない、妙な按配のナレーションが終始つきまとっていたからだけでもなくて、クイールの生涯の描出の仕方そのものにあったような気がする。つまり、その生涯を描き伝えることやそのドラマによって何らかの感動を与えようとする表現スタイルではなく、既に受け手の側に準備されている故人ならぬ故犬の記憶や想い出を呼び起こす触媒として映画が綴られていたような印象がある。だから、“あの”クイールなり、クイールならずとも愛犬を看取った覚えのある者には、自身の記憶を喚起させることで呼び覚まされる情感があるのかもしれないが、愛犬家ではない僕にとっては、場違いなものを観に来てしまったような居ずまいの悪さが拭えず、これならいっそ類型的な盲導犬啓発映画や、よくある動物と人間の絆を描いた感動物語のほうがまだしもで、プライヴェート感覚で“偲ぶ”映画を見せられてもなぁというのが正直なところだった。

 しかし、こういうスタイルの動物映画は観たことがなかったので、ある種、斬新と言えば斬新ではある。作り手としては、類型的な啓発映画や愛犬映画にはしたくないとの思惑があったのだろうから、そういう意味では意図に適っているのかもしれない。だが、僕にはフィットしなかったということだ。

 盲導犬物語にしては、パピーウォーカーの仁井夫妻(香川照之・寺島しのぶ)に随分とスポットライトが当てられていた。それは、人間において幼児体験としての愛情享受がその人格形成や対人コミュニケーション力の獲得に大きな影響を及ぼすのと同様のことが、厳しい訓練前の盲導犬においても言えるということを啓発する意図が作り手にあるからなのだろうと思っていたら、特にそんなふうな演出や台詞構成を施してもおらず、少々外されたように感じた。それどころか、むしろパピーウォーカー夫妻のハイライトは、1歳までの愛育以上に老いてのち引き取って看取るまでの時間のほうに配置されていた。映画としては、盲導犬としてのクイールのみならず盲導犬前後の時期を重視し、特にもう盲導犬ではなくなって只の老犬としての犬の最期を強調していたから、よけいに故犬を偲ぶ映画のように感じて、意表を突かれたわけだ。そしたら、エンドロールに「クイールの会」という文字が現れ、筆頭に仁井勇氏の名前が出てき、さらに映画に登場していた渡辺(小林薫)氏の遺族各人の名前やクイールの母犬の飼い主だった水戸レン(名取裕子)氏の名前までもが協力人として、作中名と同名でクレジットされた。やはり“偲ぶ”映画だったのだと妙に得心がいった。

 既に故人となっている渡辺氏とクイールの関係や絆を過剰に美化し持ち上げたりせずに、ある種の素っ気なさで描いたのは見識で面目でもあるのだが、ドラマとしては相対的に仁井夫妻とのバランスに落ち着きの悪さの残る構成になってしまったように思う。類型的な啓発映画になることを断固拒否しつつも、訓練センターのアフターケアとしての同期の盲者と盲導犬たちの合宿にて、旅館では盲者の部屋に盲導犬が泊まれない時代だったとの言及や訓練士多和田(椎名桔平)が「目の見える所長さんに見えない私らのことは分からない。」との渡辺の盲者の健常者への切り札言葉に対して「貴男は目の見えない人を貴男だけしか知らないでしょうが、私は何百人もの目の不自由な方を知ってるんですよ。」と語る印象深い言葉を残している。一方で、盲者の会の支部長もしている活動的な渡辺に言うには必ずしも適切な台詞ではない気もするが、作り手が敢えて映画のなかに取り込みたかった多和田氏の肉声なのだろう。

 また、この作品は、期間限定とはいえ興行映画館でバリアフリーを企図した日本語字幕付きの特別版(一週間)が上映され、そのうち二日間は副音声ガイダンス付きの上映もされた。そのことでは、高知の映画史的な状況記録に残されなければならない作品だと思う。

by ヤマ

'04. 4.13. 松竹ピカデリー3



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