『西陣の姉妹』('52)
監督 吉村公三郎


 主催者である小夏の映画会の田辺氏によれば、吉村作品のなかでも滅多なことでは観る機会の得られない映画なのだそうだ。昭和二十七年の作品だから、半世紀前の映画になる。戦後の日本社会の一貫したスローガンだったようにも思える“強迫的なまでの新しさの追求”の索漠さと時流に壊されゆくものの哀切を描いて、なかなかの佳作だった。何かと言えば、「そんなの古い古い」という台詞が富子(津村悠子)をはじめ、何人かの登場人物から発せられる。
 演じ手では、先頃、観直す機会を得たばかりの『瀧の白糸』で異彩を放っていた菅井一郎が、この作品でも恩知らずの悪辣な高利貸しの高村を憎々しく演じて出色の出来栄えだ。その高村に対して胸の透く啖呵を切った芸者染香を演じた田中絹代の貫禄も観応えがあった。その染香と本妻お豊(東山千栄子)の妻妾間の分限に則った潔い交誼のありさまは、もちろん今の時代に通用するものでも称揚されるべきものでもあるまいが、疾うに失われた女の品格のようなものが宿っていて美しい。また、労働者としての権利主張をもある種のこすっからさとして描いた筆致には、オリジナル脚本の新藤兼人とも併せ近代映協を旗揚げしたコンビの作品としては、当時の労働者運動の捉え方が表層的な政治色に囚われていない面目が窺えて、立派なものだ。
 場面としての見所は、頼りの番頭幸吉(宇野重吉)が傷害事件で勾留され、床に伏せている母お豊やおっとりした姉芳江(三浦光子)に代わって債権者への応対に気丈に向かっていた次女久子(宮城野由美子)が、取立にさいなまれ、身に付けた時計や指輪を差し出すしかない情けなさに打ちひしがれているときに幸吉が約束通り戻ってきてくれて、思わずその胸に縋り付く場面だった。久子が頼りなく情けない心情へと追いやられていくさまとその緩みの落差の間合いが絶妙で、宮城野由美子の表情に味わい深いものがあった。この場面が充実していたからこそ、久子と幸吉が互いの相手への想いを確認しつつも押し殺す、火鉢を挟んで行く末を算段し合う場面が生きてくるわけだ。互いに好きならば、何故に久子が戦争未亡人の姉に譲ったり、主家のお嬢さんの命とはいえ、何故に幸吉がそれを受けたりするのかというところは、僕にしても既に実感としては計りようのない昔の人の感覚なのだが、そういう時代があったことの察しくらいはつく。しかし、現代の若者には全く訳が解らないという感覚だろう。時の流れが壊し、押しやってきたものとは、そういうものだという気がする。
 それにしても、こういう貴重な作品の上映会がわずか数人の観客しか得られない結果になっているのは、何とも情けないことだと思う。

by ヤマ

'03.10.11. 平和資料館・草の家



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