『スパイ・ゾルゲ』
監督 篠田正浩


 尾崎秀實(本木雅弘)がゾルゲ(イアン・グレン)に機密情報を漏らすことが、なぜ日本の戦争回避に繋がるなり、日本政府(日本軍部ではない)を裏切ることになっても日本国民を裏切りはしないということになるのか、どうも腑に落ちないという決定的な弱みがあって少々つらいものの、魯迅の言葉に始まり、ジョン・レノンの歌詞で終えるこの映画には、前世紀に、ひとたびは本気でコミュニズムで世界を変えられると信じたことのある人々の胸の内をいくらかざわめかさないではおかないような哀悼が込められていて、言わば“コミュニズムへの鎮魂歌”という趣を湛えていると感じられるところが、妙に心に泌みてくる作品だった。
 この映画に登場する人々に対する作り手の眼差しには、どのような立場の、どのような人物に対しても、少なくとも個人レベルで時代と格闘していた営みとしての人間性を認める慈しみがある。日本軍の将校・兵士であれ、政治家役人であれ、ドイツ側であれ、ソヴィエト側であれ、スパイであれ、憲兵であれ、悪し様に描かれ、批判に晒されている者が只の一人もいない。昭和天皇や東条英機に対してさえも、同じような視線で向かっている。かつては様々な葛藤を抱き、批判の対象以外の何物でもなかったような事々に対する、このある種の境地とも言うべきスタンスには、老境ならではのものがある。しかし、ここに至ってもなお、ふつふつと止みがたい憎悪の心情が慎ましくもしっかりと込められているところにまた、作り手の面目を感じるのだ。まさしくそれは、燦然と輝いていたはずのコミュニズムを矮小化して権力闘争の手段に堕としめたスターリンへの恨みであり、力で締めあげてくるアメリカの帝国主義への怒りであったような気がする。
 レノンの『イマジン』から引用された歌詞が、国家というものがなくなっていることを想像してごらんという部分であるところに、思想の左右を超えて“国家主義”“権力主義”を否とする作り手の思いがあるように感じられる。2・26事件の皇道派青年将校たちの決起の背景にプロレタリア蜂起に繋がるものを認め、事態が露見してもなおスパイ・ゾルゲとドイツ大使オットーとの間に、立場を超えた友愛の情を留めさせたところにも、作り手のそういった思いが込められているような気がした。
 三宅華子(葉月里緒菜→加藤治子)の人物像が非常に不鮮明である割に、最終幕とも言うべき '90年のソヴィエト崩壊の目撃者として再登場したのが、流れとして少々意外だったが、エンドロールを眺めていると参考書籍の筆頭に石井花子著「人間ゾルゲ」と出てきたのを観て納得した。そうでなければ、ここは尾崎の娘であってしかるべき印象だった。その尾崎を演じた本木雅弘の背筋の伸びようが非常に印象深く、また、どの男たちにも窺えた視線の強さというものが、今の日本の男たちの失った、映画や芝居のなかでしか見られなくなったものなのかもしれないと感じた。



推薦テクスト:「シネマ・サルベージ」より
http://www.ceres.dti.ne.jp/~kwgch/kanso_2003.html#spy_sorge

推薦テクスト:「神宮寺表参道映画館」より
http://www.j-kinema.com/rs200307.htm#sorge
by ヤマ

'03. 7.15. 東 宝 2



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