『Dolls<ドールズ>』
監督 北野 武


 イメージとしての映像がやたらと美しく鮮やかで目を奪われるのだけれども、描かれた世界にその映像に見合うだけのものが宿っているようには感じられないものだから、せっかくの映像美や編集技巧が妙にあざとさにばかり繋がる形に見えてきて勿体ない気がしてならない。

 自分の仕打ちで心神喪失を来した元の恋人を連れて春夏秋冬を経巡り“つながり乞食”としての一年を過ごした後に、残された末路としての然かるべき最期を遂げる松本(西島秀俊)と佐和子(菅野美穂)の道行きにおける男の贖罪と献身にしても、苛烈な人生を歩んできたとおぼしきヤクザの親分(三橋達也)が生い先短いなかで思い出した青春期の純情にしても、不慮の事故で美貌を損ね引退したアイドルの春奈(深田恭子)のために自身の目を潰して一途な思いに殉じた追っかけ男(武重 勉)の思い入れにしても、相手に対する思いの発現を見せただけで、すべて死をもって頓挫を迎える半端さだ。それが哀しいと言えば哀しいのかもしれないが、どうにもナルシスティックで甘ったるい気がしてきて、物語世界に誘われず、居ずまいが悪かった。

 ロケーションの見事さ、色使いの鮮やかさ、もみじ葉や風車などの扱いの巧さや編集のこなれ、とても“つながり乞食”の身の上とは思えない佐和子の衣装の素晴らしさなどなど、眼福とも言うべきものがこれだけ揃っていても映画作品としては、満足の得られる手応えを感じられなかったのだから、映画というものは実に難しいものだ。あれだけの素材を得て、ある種の象徴性とともに物語世界としての深みを宿らせ、観る側に感じさせることができないのは何故なんだろう。逆玉の輿による婚約破棄だとか、四~五十年前の待ち合わせの約束だとか、人に見られたくない傷ついた美貌だとかいう仕掛け装置の安っぽさが、他の技巧的卓抜さでもってさえも補えなかったということだろうか。

 しかし、作品における“宿り”の問題というのは、そうも簡単なことではなかろうという気もする。作り手が意図したことを意図したとおりに作品に宿らせるということ以上に、作り手の意図を越えたものが作品に宿ることがその豊かさを生み出すような気がするし、作り手が意図しなかったはずのものが透けて見える形で宿っていることで、その作品の底が割れてしまうように感じられることもよくあると思う。

 僕がこの作品を観てて一番強く感じていたのは、作り手の側の“究極の愛や夢幻の美”への憧れや想いではなく、映像作家としての構えや気取りのようなものだった気がする。最初と最後での文楽の使い方などには、外国人批評家を意識したようなところが多分に窺えたし、四季の描き方やアルマイトの弁当箱、夜店のお面、現代のヤクザや芸能アイドルの世界とそれを取り巻く状況などへの目の向け方にも、そういう“意識されたジャポニズム”という視点が感じられて仕方がなかった。もう十年ほど前になるが、『あの夏、いちばん静かな海』を観たときに、批評家が褒めてくれそうな映画を撮ってみたらエライ目に遭ったとかいうようなことを言っていた記憶があるが、やはりそういう傾向がかなり強い人なんだろうなと思わないではいられなかった。




推薦テクスト:「K UMON OS 」より
http://www.alles.or.jp/~vzv02120/imp/ta.html#jump13
推薦テクスト:「シネマ・サルベージ」より
http://www.ceres.dti.ne.jp/~kwgch/kanso_2002.html#dolls
推薦テクスト:「神宮寺表参道映画館」より
http://www.j-kinema.com/rs200210.htm#Dolls
推薦テクスト:「THE ミシェル WEB」より
http://www5b.biglobe.ne.jp/~T-M-W/moviedolls.htm
by ヤマ

'02.10.31. 松竹ピカデリー3



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