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『赤い橋の下のぬるい水』 『渦』(Maelstrom) | |||||
監督 今村昌平 監督 デニ・ビルヌーブ | |||||
同じ日に和洋の作品ながら、水を重要なモチーフにした映画を観た。どちらも官能を窺わせつつ、死と再生を語る癒しの物語で、海の男が登場する。日本映画の『赤い橋の下のぬるい水』の味付けは軽妙さ、カナダ映画の『渦』の味付けはミステリアス。期せずして、どちらの作品にも主人公が携帯電話を川なり海に投げ込むシーンがあって、それがこれまで生きてきた世界のしがらみと訣別する意味合いをもっていた。片方の魚は物語の語りべで、もう片方の魚たちは、ぬるい水に群れ集う。 今村作品は、辺見庸のいくつかの短編小説がベースになっているらしい。漢語の固い言葉を多用しながらも、抽象概念を振り回すことなく、徹頭徹尾、実感と現場感覚にこだわり、そこから汲み取る想いと眼差しの深さを思わせる辺見庸が、官能作品をものしていること自体を知らなかったし、ベースとなっている小説も未読だが、この作品から窺える軽妙さは、今村昌平の個性が多分に影響しているようでありながら、原作自体に宿っていたものではないかという気がしてならない。身体感覚で現場をつかみ取る彼の感性が官能に向けられたとき、どのような言葉を紡ぎ、物語世界を構築するのか興味を唆られるところだ。 それにしても突拍子もないヒロイン像を造形したものだ。でも、想外にシンボリックで豊穣なイメージを湛えている。だが、これはやはり言語世界によるイメージ造形のほうが、より適していたのではないかという気がする。視覚イメージとして提起された今村作品において僕が最も物足らなかったのは、何と言っても“ぬるい水”という女の体温ほどのぬるさ加減が映画から伝わってこなかったことだ。サエコ(清水美砂)の秘処から吹き出した大量の水が排水路を通って赤い橋の下の川に流れ込む様子は、何度か映し出され、その際に湯気立つ水として視覚化して温度を表現していたが、湯気が立つのでは温度が高すぎる。陽介(役所広司)との交わりそのもののなかに“ぬるい水”が感じられないといけないのに、吹き出す水ばかりが強調されていた。女ひとりでは漏れ出るだけで放出できないぬるい水。男との相性で量も頻度も変わる。おびただしくとも案外早く乾き、男の体力精力を奪い取る一方で、男に気力と自信を与える。そのぬるい水にひたるなかで男は安心を得、蘇生力を与えられる。サエコがもてあまし、恥ずかしがっていたそのぬるい水の価値と力に気づき、次第に肯定できるようになっていくことを陽介との関わりのなかで得られる過程がもっと丹念に描かれるべきではなかったかという気がした。 その点、『渦』では、ふたりの男女の関係性の進展のなかで、癒しと再生の獲得が過程としてきちんと捉えられ、描かれていたように思う。すべての偶然は、因果の渦によって結ばれた必然であるかのような世界観を窺わせつつ、人が孤独の淵からつかの間救い出されるのは、結局のところ男女関係のなかで得られる蘇生力によってであることを感じさせる。『赤い橋の下のぬるい水』のようにあからさまに水が迸るわけではないが、インサート・ショットとして何度か挟み込まれる波飛沫のようなイメージがざわめきとともにある種の潤いとして感じられるのは、全編に青の冷たさとともにある渇きのようなものが宿っていたからだと思う。そこが『赤い橋の下のぬるい水』に欠けていたものだったような気がする。渇きとの対照によって水の潤いは際立つものだ。 冒頭の堕胎手術のタフなまでの生々しさやビビアン(マリ・ジョゼ・クローズ) の顔をアップで捉えて肌を印象づけるショットなどの感覚に観慣れぬ新鮮さを覚えるとともに、女性に対して些かも偶像化や憧れのまなざしが感じられないところが今村作品と対照的で、てっきり女性監督の作品かと思ったが、聞くところによるとデニ・ビルヌーブ監督は男性だそうだ。少々驚いた。 『渦』 推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2001ucinemaindex.html#anchor000638 | |||||
by ヤマ '02. 1.20. あたご劇場 & 県立美術館ホール | |||||
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