『忘れられぬ人々』
監督 篠崎 誠


 民夫(青木富夫)が「こんな日本を守るために俺たちは戦ったんじゃない」と呟く台詞があった。生きて内地に帰還できたことを素直に喜べなかった記憶と今に至るまで生きてこられた喜びを噛み締める老いらくの恋のなかにあって呟く台詞だったが、苛烈な時代を生き延びた老人たちが晒されているのが、彼らを食い物にしようとする後世代の仕掛ける罠とそれを自己責任などと突き放している今の冷たい社会であることが澱のように残って、いささか気分が滅入った。
 見様によっては、最後に一花咲かせて天晴れ散華したかつての兵士たちと言えなくもない堂々たる最期であって、決して追い詰められた悲壮さはなく、演出的にもあっさりと明るく運んでいるのだが、カタルシスは感じられなかった。こともなげに戦いに向かう彼ら老人たちの胆力のほどと今の体たらくを晒す日本のこの世にさしたる未練がないことを浮かび上がらせてはいた。
 それにしても、民夫が恋した上品な老婦人(風見章子)を狂気の淵に追いやった霊感商法会社の手口の悪辣さにはいささか憤慨した。どうにも気分が悪い。しかも、いかにも実際にありそうな手口で、よく訓練された様子が窺われるものだから、余計に腹立たしい。その先兵として、モラルを麻痺させ、悪に手を染めていく若者を養成していくセミナー合宿と称する企業内研修の非人間的な不気味さもまた、いかにも実際にありそうで気持ちが悪い。戦時中に若者を戦地に送り込むために施された軍国主義教育もモーレツ・サラリーマンを生み出した社員教育も本質的には同種のものであった気がしてならないが、現代の洗脳術のほうが遥かにたちが悪い気がする。最前線で操られるのは、いつの時代においても若者で、周囲のなかでも一際真面目な連中ほど深みに嵌まるのが哀しい現実だ。このような姿を現代の日本の象徴的なものとして観るとき、そこに最も欠落しているのが人への想いとモラルであることを改めて感じる。
 そんな思いにとらわれたせいか、老人たちの心のなかで何らかの形で支えになり得た若い世代の者が二人とも純血の日本人ではなかったことに作り手は、何らかの意図を持っていたような気さえ催した。黒人米兵を父にもつ少年と戦死した在日朝鮮人日本兵の孫である看護婦の百合子(真田麻垂美)がそういう役割を負って配されていたのは、単純に国際化時代とか外国人居住者が増加している現在を反映しているだけのようにも思えなかった。でも、そうであれば、作り手がいかに純血日本というものに悲観しているかということにもなるので、多分そこまでの意図はなかったのだろうと思う。僕が汲み取った想念にすぎないというのが妥当なところだろう。しかし、そんな気さえ催すほどに霊感商法会社の手口の悪辣さがもたらした不快感は強かったということだ。
 青い空を背景に坂道の頂きで、先に逝った民夫と木島(三橋達也)と並んで立って少年に手を振った以上、平八(大木実)もまた妻(内海桂子)の待つあの世へと旅立って行ったのだろう。それはまた、映画を観る者に向かって残された旅立ちの挨拶でもあろう。彼らが戦死した戦友たちに対してちょうどそうだったように、“忘れられぬ人々”を強く心のうちに持ち続ける者は、誇り高く生きられるのかもしれない。少年に対するとともに観客に向かって手を振った彼らをそういう“忘れられぬ人々”として記憶してもらえることが作り手の願いなのかもしれない。観終えたときは、いささか気分が滅入ったが、思い起こすとそういう作品だったような気もする。

推薦テクスト:「eiga-fan Y's HOMEPAGE」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2001wacinemaindex.html#anchor000660

推薦テクスト:「神宮寺表参道映画館」より
http://www.j-kinema.com/rs200109.htm#忘れられぬ人々

推薦テクスト:「シネマの孤独」より
http://homepage1.nifty.com/sudara/kansou8.htm#wasure

推薦テクスト:「こぐれ日記〈KOGURE Journal〉」より
http://www.arts-calendar.co.jp/KOGURE/NAMIOKA-FILM-FESTIVAL-3.html
by ヤマ

'02. 1.18. 県民文化ホール・グリーン



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