『イグジステンズ』(eXistenZ)
監督 デビッド・クローネンバーグ

 82年『ヴィデオドローム』で決定的な印象を残して以来、クローネンバーグ監督くらい、らしさを一貫して失わずにいる映画作家も珍しい。変異、汚染、幻覚(今回は仮想現実)、臓器感覚といったキーワードが脈脈と流れ続けている。最初にアレグラ(ジェニファー・ジェイソン・リー) が妖しげな形状をしたメタフレッシュ・ゲームポッドを操作するときの指の動きのエロティックさとか臍の緒そのもののようなアンビコードとか、まさしくクローネンバーグの真骨頂だ。そもそも肉体に穴を開け、脊髄の末端をコネクタにして中枢神経に直接アクセスする、とんでもない体感RPGによるヴァーチャル・リアリティなどという着想自体が極めてクローネンバーグ的だ。しかもそこには、確かさというものを失った現代人の心象に迫るアクチュアリティが存在している。
 しかし、個性的な独自の感覚やイマジネーション、着想の魅力といったものと同時に、監督・脚本をいつも一人でこなすクローネンバーグの脚本力の弱さもまた踏襲されていて、今回は他の部分が、ベルリン国際映画祭銀熊賞(芸術貢献賞)を受賞しただけあって充実していたために却って際立ってしまった。身体に穴を開けるのが恐くてバイオポートを持っていなかったパイクル(ジュード・ロウ) が、アレグラに魅せられたとはいえ、もぐりの業者(ウィレム・デフォー) に施術してもらうだとか、それがガソリンスタンドであることが裏情報として広く知られているふうでありながらも、二人しか施術経験がないだとかいうのは釈然としない。そもそもパイクルがアレグラを助け出そうとする動機も釈然としないし、誰も信じられない状況で命を狙われている割には、いとも簡単に現場から逃れられることも不自然だ。イグジステンズのオリジナルゲームは、このポッドのなかにしかないと切迫して言う一方で、いろんな人たちが既にイグジステンズというゲームを始めているようだと言ってみたり、辻褄が合わないことの著しいものがある。仮に最後の場面が現実であれば、この部分はRPGのなかだということになるわけだが、そうであったにしても、あんまりじゃないかという気がする。
 逆に、この部分が現実であれば、少なくとも最後の場面は現実ではなく、まだRPGのなかだということになり、最後の場面がRPGのなかだったとしてもこの部分が現実である保証はないというわけだ。そういう不確かさ、つまり、結局は誰がゲームデザイナーであるかも判らないし、いくつかのステージの違いはあっても、この映画には現実の場面はただの一つもなく、すべてがゲームのなかの仮想現実だったのかもしれないなどというあたりがこの作品の構成上のミソなのだから、この部分が釈然としないというのは、やはりいただけない。
 もっとも、クローネンバーグにそういったことを期待するのは、はなから筋違いなのかもしれないという気もしないではない。そういう意味での緻密さとか隙のなさというものとは無縁であるからこそ、クローネンバーグ的なのだと言えるようにも思う。破綻の魅力とかほころびの魅力といった、およそ他では魅力になり得ようのないものを魅力として漂わせている部分があるというのも、クローネンバーグならではのものだという気がする。

推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2000/2000_05_08_2.html

推薦テクスト:「cubby hole」より
http://www.d4.dion.ne.jp/~ichiaki/2000-5.htm#イグジステンズ
by ヤマ

'00. 5.25. 高知東映



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