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『ゴジラ・モスラ・キングギドラ/大怪獣総攻撃』 | |||||
監督 金子 修介 | |||||
95年のお正月に『ゴジラ VS スペースゴジラ』を観、年末に『ゴジラ VS デストロイア』を観て以来、僕はゴジラ映画を観なくなった。昔懐かしい怪獣映画を観ながら、退屈し、睡魔に襲われるようになったのが情けなくなったこととその年にゴジラ以上に僕が好きだったガメラが金子修介監督作品として滅法面白く甦ったからだ。『大怪獣空中戦』も『レギオン襲来』も『邪心覚醒』も喜々として観に行った。見せ物としての怪獣が暴れるだけではなく、圧倒的に強大なる者に立ち向かう人間の姿というものが常に描かれ、災害や事故のように降って湧いたように怪獣に襲われるのではない因縁のある物語が魅力だったが、それ以上に惹かれるのが、何と言っても観せ方の巧さであり、構図や動きといった映像そのものの魅力であった。 その金子監督作品としてゴジラ映画が登場したのだから、観逃す手はない。期待どおりの素晴らしい映像で、ゴジラ映画でお馴染みのキャラクターたちが見事に甦っていた。怪獣バトルの映画でありながら、人間を無力な存在としていないところもガメラ・シリーズと同じだ。ところが、どうにも居ずまいの悪さが残る。護国神獣を語りながら、国を守ることは国家を守ることではなく、山や川を含め、人々の暮らしを守ることだといった台詞があったように思うが、これは国家が国防を言うときに常に使われてきたレトリックではないのかと気になった。あからさまに国体護持だとか政府維持ということばかりが、かつて叫ばれたわけではないはずなのだ。 護国神獣の直接的な犠牲者となった者たちは、暴走族であれ、無軌道な夜襲をかける大学生たちであれ、不埒な若者たちで、戦後教育の失敗の象徴のごとく語られる存在だ。凶獣ゴジラに不滅の生命力を与えているのは、太平洋戦争に殉じた英霊たちが現在の日本を見て想う無念の魂だと言う。そのうえで、防衛省のもとにある正規軍隊としての国防軍がヒロイックに描かれ、准将でありながら最前線に出撃していくヒーロー(宇崎竜堂)が活躍する。身を投げ打って殉じさせることなく、生還させたところはよしとするのだが、ゴジラに結集する無念の魂に戦没英霊のみならず犠牲者となったアジアの民を加えたり、准将に「実戦経験がないのは誇りだ」という台詞を与えたりしてはあっても、物語の骨格としては、愛国精神と軍隊保有を称揚する自由主義歴史観とやらを標榜する連中の論理そのままだという気がする。ガメラのときの高島政伸には感じなかった胡散臭さをこの作品の宇崎竜堂に感じるのは、それゆえではないか。 しかし、金子修介は、エンターテイメントを身上とする監督であり、社会的関心は強そうだが、そういった思想的傾向に走るというよりは、時代的な空気を巧みに掬い取ることによって、結果的にこのような骨格を持った作品ができあがったのではないかという気がする。だが、考えてみれば、ひとつの立場としてそういった主張を声高にされること以上に、時代の空気を掬い取ってみたらこういう胡散臭い骨格を帯びてしまうという現実のほうが、僕には遥かにおっかないことだという気がするのだ。小林よしのりの本がバカ売れしたりしているところからすれば、現代の若者のメンタリティは確かにこのあたりのところにあるのかもしれない。僕個人は、戦後教育の最大の過ちは学生運動による紛争に懲りて、教育の場から社会と政治を排除し、記憶と技術を重視して考える力を養わせない指導要領と教育方針を文部省が押し付けたことにあると思うのだが、その遠因は逆コースという重大な政治転換だったのではないか。そこのところを抜きにして、戦後を一括りにしてしまう史観には、いつも胡散臭さが付きまとうように思えてならない。 推薦テクスト:「シネマ・サルベージ」より http://www.ceres.dti.ne.jp/~kwgch/kanso_2001.html#gojira 推薦テクスト:「シネマ・チリペーパー」より http://homepage3.nifty.com/ccp/hihyou/godila.html | |||||
by ヤマ '01.12.27. 東宝1 | |||||
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