『春香伝』(Chunhyang)
『ベンゴ』(Vengo)
監督 イム・グォンテク
監督  トニー・ガトリフ


 僕が十代の頃は、民放ラジオで夜七時頃の好時間帯にまだ浪曲や講談の番組があって、一時期それを楽しみに話芸と節回しに聴き惚れていたことがある。この映画でパンソリとして歌い語られていた物語は、日本のそれらに当たるような人気の古典だそうで、口誦伝承劇にふさわしいシンプルな骨格を持った話だ。国唱人間文化財だというチョ・サンヒョンの、時に朗々と時に哀切きわまりない、喉の奥から絞り出すようにして歌われるパンソリ「春香歌」によって展開していく形でドラマが進行するばかりか、彼が歌っているステージと客席の様子までもが随時挿入される。映画の軸になっているのは、春香と夢龍の物語以上にパンソリの「春香歌」だという感じだ。そして、そこには伝統芸能に対する深く真摯な敬愛が窺われ、ある種の格調の高さを紡いでいるところが見事である。
 映画化に際しても、パンソリの歌声を邪魔しないよう控えているように感じられる映像が目立つ一方で押し出すべき場面では、かなり大胆に主張もしていたし、ドキュメンタルな作業風景を映し出す畑の場面の演出と芸能的様式を思わせる所作による刑罰場面の演出の対照など、さまざまに工夫を凝らしてメリハリを利かせており、こんなシンプルな話を二時間もの大作仕立てにしておきながら、いささかも飽きさせないのは大したものだ。
 パンソリ自体は、つい最近観た『ベンゴ』が見覚えのあるショーアップされ、洗練されたフラメンコとは異なるジプシー音楽としてのフラメンコを印象づけていたのと同じく、『風の丘を越えて〜西便制』で聴いたときのパンソリ以上に土着性の強いもので、どちらの作品もそれぞれの民族歌謡としての根っこの部分に触れたような感銘を残してくれたのだが、同時に、その本当の味わいは、土地の水を飲み、食べ物を食し、空気を吸わなければ、とても窺い知ることができないことを思い知らされたような気もする。チョ・サンヒョンの「春香歌」がクライマックスを迎えるに及んで、手拍子が生まれ、踊り立つ聴衆の姿が映し出されるのを観ながら、耳は傾けてもとてもこのようには乗れない節回しだと感じていた。日本の民謡にしたって、それは同じ事で、さらに言えば、同じ国に住む同一民族間ですら、住まう土地が異なれば、その本当の味わいを知ることができない気がする。
 そもそも土着性とはそうしたもので、逆にそれだけ身体感覚に根ざしたものであればこそ、その感覚自体はけっして易々と同調を許さないものながら、そこから浮かび上がってくるものには、頭でっかちな観念だけに流れることのない、身体性においてのみ果たし得る普遍性が宿るのだろうと思う。タヴィアーニ監督の言葉として記憶している「最も土着的なものこそが普遍的であり得る。」の意味するところもそういうことなのだろう。
 だが、『ベンゴ』にはあまり惹かれなかった。僕自身の印象として、そういう土着性を上回る形で、設定やストーリー仕立てに北野武作品の影響のようなものを感じたからかもしれない。奇しくも、日本語で演歌を歌っている場面も登場したりするのだが、北野作品に似たテイストをあの映画的洗練を抜きに、設定やストーリー仕立てにだけ感じてしまうと少々つらいものがある。とは言え、こういう作品が高知の映画館でも上映されるようになったことは嬉しいことだし、レアもの映画として、観逃すには惜しいと思える作品ではあった。


推薦テクスト:「こぐれ日記〈KOGURE Journal〉」より
http://www.arts-calendar.co.jp/KOGURE/01_9/CHUNHYANG.html

推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2000/2000_12_11_2.html

推薦テクスト:「Ressurreccion del Angel」より
http://homepage3.nifty.com/pyonpyon/2001-7-5.htm
by ヤマ

'01.10.23. 県立美術館ホール
'01.10.20.    あ た ご 劇 場



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