『日本の黒い夏[冤罪]』
監督 熊井 啓


 前日にみんなのいえを観て、日誌に「職業倫理の根幹」といったことに思いを馳せて綴った直後だけに、それが最も厳しく問われるべき現場を持つ警察と報道について現実に起こった事件を検証する形で描いた作品を観て、感慨深いものがあった。

 自らに対する免罪符としてしか機能していない「取り調べではなく、参考人聴取」だとか、「疑いとか、~によるとといったエクスキューズつきの報道」だとかに、どれだけ寄り掛からずに事実に向かっていくかが職業倫理の根幹にあるわけだが、それが組織としていかに担保されていないかということが身に泌みるなどということは、もうこの歳になると今更のことでもなく、また、そういう状況にあってさえモラリスティックであろうとする少数の個人が確実にいることや同時にいかんともしがたい多数の個人がいて大多数の鈍感な個人がいることも、もはや新鮮な驚きではない。メディアに煽られる人々がいることや煽ったメディアの側が逆に彼らから圧力を掛けられ、硬直してしまう間接的な自縄自縛の構図というのも公的組織のどこにでも見受けられる姿だ。

 しかし、河野義行氏をモデルにしたという神部俊夫(寺尾聡)の人物像は、この国で同時代に生きる市民の一人として驚くべきものである。パンフには、この映画を観ての氏の言葉が寄せられていたが、これまでは、松本サリン事件を自分の視点で見てきたが、映画を通して、住民の不安や苦悩するマスコミ、無理を承知で自白の強要をせざるを得ない警察など、多角的な情報が入り、俯瞰して観ることができ、改めて世の中の立場の違いを考えさせられた。…メディアリテラシーの教材としても利用度が高いと思われ、より多くの人達が鑑賞を通して、メディア情報に接する習慣を省みることを望んでやまない。とあった。この冷静で高邁な精神は、いかにして身につけられるものなのだろう。この映画も優れた作品だとは思ったが、個人的には、むしろこちらのほうに迫ってもらいたかったような気がする。不条理と言うしかない、あれだけの災難に出会って、彼のように対処できる人物が今の日本にそうそういるとは思えない。

 それにしても、笹野報道部長(中井貴一)であれ、吉田警部(石橋蓮司)であれ、現場にはそれなりの職業倫理をもって事態に対処しようとする者がいるものだが、必ずと言っていいほど、組織の上層部はそれを汲み取ろうとはしない。とりわけ県警上層部やさらにその上に位置する中央の警察庁のモラル・ハザードぶりには、いつもながらうんざりさせられる。マスコミ取材現場においても、東京から大挙して訪れた連中のマナーの悪さが際立っていたらしい。県警本部長も東京から派遣される警察官僚だし、配信記事と警察庁のリークや伝聞情報に推測を加えた無責任な思い込み報道についても、東京の大手マスコミのほうが垂れ流しぶりがひどかったようだ。地方メディアには当然のこととして、警察庁からのリークなどあろうはずがないのだろう。

 しかも、悪いことに警察でも報道でも、その影響力については圧倒的に東京主導なのが日本の現状なのだ。他の地方に対してならまだしも、当の地方においても、遠く離れた東京のほうが主導権を握っているという状況にあって、警察庁が夏のうちにオウム教団とサリンが繋がる情報を得ていながら、河野氏に対する県警の捜査を放置したばかりか、地下鉄サリン事件を未然に防がなかったのは、モラル・ハザードを通り越した犯罪行為とさえ思える。東京の警察庁の幹部連中が、地方に対して、多少なりとも職業倫理に基づく眼差しで向かっていたなら、おそらくは半年後の地下鉄サリン事件は防げたはずだと思うのは、地方在住者の僻み目だろうか。




推薦テクスト:「神宮寺表参道映画館」より
http://www.j-kinema.com/rs200103.htm#日本の黒い夏
by ヤマ

'01. 7. 8. あたご劇場



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