『ホタル』
監督 降旗 康男


 1958年生まれの僕は、太平洋戦争について歴史としてきちんと教わった記憶がない。小説やドラマ、映画や漫画などのフィクションを通じて情緒的に伝えられるものをわずかに見聞きしているだけだ。それでも、この歳になれば、知覧から飛び立った特攻隊のことを初めて知るわけではない。しかし、少尉とはいえ、帝国軍人の将校に朝鮮民族の人が任官されている物語には、これまで出会った覚えがなかったので、いささか驚いた。僕が知らなかっただけならいいが、この部分がフィクションだと実はとんでもない話になる。
 時代に翻弄され、苛酷な生を余儀なくされた名もなき人々を語り継ぐことは大切なことだ。そして、戦争によって生命を終えた人々以上に、戦争の傷をずっと抱えたまま生き延びてきている人々について語ることは、難しいことなのだけれど、もっと大切なことだと思う。だが、この作品は、場面場面の持つ力によってある種の感銘は呼び起こすものの、どうも釈然としない違和感のようなものも誘発させる。金山少尉の最期の言葉をみても、単純な復古主義的胡散臭さを作り手が擁していないことは明白だ。前世紀において解決できないままに繰り越した日韓関係の未来に対しての思いも窺える。良心的な作品ではあるのだろう。これを素朴に偽善などという糾弾はしたくない。
 しかしながら、どこか虚飾に彩られた薄っぺらさが拭えない。実力のあるスタッフ・キャストに支えられて、場面場面の思いの深さは感動的に表現されているのだけれど、その思いの底にある関係性の描写がほとんどなくて、台詞による説明で済まされていることに気づいた。そういう観点から振り返ってみると、作品全体が場面で繋いでいるだけで、たくさんの人々の関係性を描写によって綴ってはいないような気がする。だから、物語に血が通ってこないのだ。役者の存在感と演技力によって場面は持ちこたえているのだが、作品として胸に響いてこない。
 人々に敬遠されがちな戦争を扱った良心的な作品として、敬遠されない映画づくりを目指すなかで、情緒としての明るさと切なさというものに非常にこだわっていることや盛り沢山の社会問題を折り込み、意義深い作品に仕上げようとしている。そのあまりに「血の通い」という最も肝心なものが看過されてしまったような気がする。製作委員会にたまたま新聞社が名を連ねているから言うわけでもないが、どうもマスコミ取材的な総花性や表層性が漂っていたように思う。
 盛り沢山に過ぎると言いつつも、朝鮮人将校の登場とともに眼を引いたのが、昭和の時代の終焉とともに自らの生命を絶った生き残り特攻隊員のエピソードだ。世紀の終わりや始まりに対してある種の意味づけや思いを込めた部分を持つ作品には既に種々出会ったような気がするが、昭和という時代に対しては初めて観たように思う。十余年も経てようやく垣間見るほどに、日本人にとってはただ過ぎ去っていっただけのことだったのだろうか。僕自身にとっては、確かにそれだけのことに過ぎなかったのだけれど、自殺した生き残り特攻隊員ほどではないにしても、人々が世紀の終わりや始まりに対して感じたものと同程度くらいには意味を持った人々もたくさんいるであろうに、そういう部分を偲ばせる作品がこれまでなかったのは、どうしてなんだろう。日本という国の文化が、歴史や時代と切り結ぶこと自体を半ば空洞化させるようになっているからだという気がする。
by ヤマ

'01. 6.15. 高知東映



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